分散化ソクラテス:(8)問答法への批判:バイアス解除の不可能性
筆者は「ひとり政治制度」としてのソクラテス的問答法の持続可能性に課題を感じる。
第五回で触れたソクラテスの問答法は二段階に分かれている :
- 第一段階:対話相手が含意する矛盾の指摘によるバイアスの解除
- 第二段階:バイアス解除された対話相手の自由な新方針決定
ソクラテスの意図は、対話相手を「正しい意見=自分のバイアス」に説得することではない。それはディベート術の目的だ。彼の意図は、対話相手がバイアスから自由な態度(=「普遍的立場」と呼んでおこう)を維持することにある。まさに「自分が無知であることを知る」ということ自体が目的である。
このような意図に対し政治哲学でよくある批判は、そもそも「バイアスから完全に自由な普遍的立場」は、人間の実存の条件としてありえないというものだ。言葉の内部に埋め込まれたバイアス、生理学的バイアス、あるいは「普遍的立場が良い」というバイアスなどなど、ひとは無限のバイアスを持って生きざるを得ない。無知のベールをかぶることができるのは思考実験上だけなのだ。
しかし、ソクラテスの問答法の意図は、「バイアスから自由な態度がある」という主張ではなく「バイアスから自由になり続ける」活動そのものの継続だ。ゆえに、「無意識のバイアスが無数にあり完全に解除できない」ことで、それを批判することはできない。
筆者が、問答法の持続可能性に疑問を感じる理由は、このタイプの批判とは別だ。問答法が持続不能にみえる理由は、それがあまりにも「強い個人」を要求しすぎることにある。
次回はその点にふれる。
冒頭画像
Pictures of Prejudice, June 4, 1800, Thomas Rowlandson
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