分散化ソクラテス:(9)問答法の持続不能性:バイアス解除への憎しみと弱いアナーキズムの必要性
他者のバイアス解除をひたすら続けることで、自由と平等を実現しようとする「ひとり政治制度」としてのソクラテスの問答法。
筆者は、この「制度」の持続可能性に疑問を感じる。問答法はあまりにも「強い個人」を要求しすぎるからだ。問答法は、とても強い自己制御、意図を達成するためなら、自死をもいとわないほどの克己を要求する。
もし問答法がうまくいったとしよう。矛盾をつかれて狼狽した対話相手は、ソクラテスにどんな感情をいだくのか?感謝?称賛?そういうこともあるかもしれない。だが、恥をかかされたことへの憎しみが生まれることも多いはずだ。
また、解除されたバイアスが、共同体にとって重要な価値(神、金、国家)だったとする。それを守りたい既得権益者は、憎しみ以上の感情を抱く。事実、ソクラテスは当時の共同体に疎まれ、冤罪の死刑判決を受ける。彼はそこから逃れることもできたが、あえて死刑になる。その自殺行為とそれが他人にもたらす効果が、「ひとり政治制度」として機能することを知っていたからだ。事実、ソクラテスの死は、人類史上語り継がれる出来事となった。
しかし、ソクラテスの姿をみて育った世代、たとえばプラトンは、ソクラテスの方法論を受け継がない。その「ひとり政治制度」が民主主義とは共存不能とみたプラトンは、ソクラテスの精神を保存した別の制度(=哲人王(第六回))の擁立を試みる。
『哲学の起源』で柄谷は、「哲人王」を、ソクラテスの問答法が持つ意図のパロディだとして批判した(第七回)。しかし、筆者は「ひとり政治制度」としての問答法自体が、信念のための自死まで要求するなら、持続可能ではなく破綻しているとみる。問答法の代替制度がプラトンの哲人王である必然性はない。だが、そのままの問答法は、あまりいい政治制度とはいえない。
プラトンの哲学王は、たとえ問答法のパロディだったとしても、全ての理念を手段として、自分の幸福(あるいは権力)を追求すべきだというような思想とは程遠い。だが、ソクラテスの弟子で、その死に様をみた者が、このような態度に反転することもあるだろう。ソクラテスの意図とは違い、その死には、何の意義もないかもしれないのだ。ならば、単なる現実主義者となって、「なるべくソクラテスのような目に遭わないように生きる人」になるという道もある。
もし、このような人が多いなら、ソクラテスの問答法がもたらす効果は、彼の意図とはほとんど逆になる。なるべく「ソクラテスのような人」にならないよう振る舞う人ばかりの社会は、誰もお互いのバイアスを解除しないからだ。これは「ソクラテスのような人」を制度化しようとしたプラトンの哲学王とは、別方向の師への裏切りだ。だが、実際にはこういう人間の方が多いのではないだろうか?
結果として、ソクラテスの問答法は、「ソクラテスのような人」を制度化(哲人王)する場合でも、「ソクラテスのような人」から、なるべく遠ざかろうとする人々(現実主義者)を生む場合でも、意図とは別の結果を生む。ゆえに、問答法が要求する「強すぎる個人=ソクラテスのような人」は、持続可能な「ひとり政治制度」ではない。
問答法は、自己の幸福追求を第一に置くことを否定する道徳だ。しかし、そのタイプの道徳には歪みが出てくる。正しいと思うことを、自らの幸福より優先すべきだという道徳は、その正しさを無理やり守ろうとしたり、他者に守らせようとする。そのことで、最初目指していた崇高な道徳とは程遠い教条主義に変質していく。その道徳は、やがて、それが否定していたであろう相手、たとえば崇高な目的のために命の犠牲を美化する全体主義と似てくる。
必要なのは、無理せず普遍的善と個人的幸福の間で迷い続けることをサポートするシステム、それに付随した弱い倫理だ。筆者は、分散組織にサポートされうるそうした弱い倫理を、かつて「弱いアナーキズム」と呼んだ。
強すぎる「ソクラテスのような人」を要求する思想が、意図せざるパロディや、反転した現実主義者を生み持続不能なら、弱い「ソクラテスのような人」を、(中央で責任感を持って束ねる強い主体無しに)分散したまま協調させるメカニズムが必要だ。だから、「自由のための自由」を追求する主体による古典的な「強い」アナーキズムに対し、メカニズムの設計と不可分なその思想を「弱いアナーキズム」と呼びたい。
弱いから、メカニズムの提案を必要とする。現実主義者ではないから、ポピュリストたちのバトルロイヤルを管理するだけの冷めたアーキテクチャではなく、自由と平等という古代の理想を諦めない。それが弱いアナーキストだ。
が、その詳細はまた別の機会にして、次回は、問答法のもう一つの課題について書くことにする。