分散化ソクラテス:(10)問答法の持続不能性:経済的自立
問答法の持続可能性にはバイアス解除による憎しみ以外にもう一つ課題がある。
普遍的立場は儲からない。
共同体やそのメンバーがバイアスにとらわれていると自覚させるより、フォロワーへのポジショントークを繰り返す方が権力を拡大できる。権力を拡大すれば、たいてい儲かる。ヒトラーもそうしたし、現代でもネット上で多くの人々が、そうした活動に忙しい。
ソクラテスは、他のソフィストと違って、問答法の相手から金銭を受け取らなかったという。彼は、「共同体内で他人を論破して出世する」という明確なゴールを持つディベート術を教えたわけではない。ソクラテス自身が自分の弁論術が出世に使えるわけがないと自覚的だった。なので対価を取らなかった。逆にソフィストたちは生活費を稼ぐため、ディベート術を家庭教師した。だから職を失いたくなくて、共同体のルールや神には逆らえない。ソクラテスとは違う。
それはいい。対価の要求は、ある意味で趣味の問題だ。しかし、ではソクラテスはどうやって生活していたのか?他の労働で生活費を稼ぐか、不労所得を得るしかない。
もし、前者なら、余技としてしか問答法はできない。後者なら、それは結局経済的自立とは両立していないし、見えないところで他者を搾取しているから、「自由と平等」という問答法の意図と矛盾する。
精神分析やカウンセリングは、対価を払うことで、それ自体が経済的に自立した営みなっている。一方、バイアスを解除していく普遍的立場は、ジャーナリストになるか、ある意味市場の外部にあるアカデミズム内でしか存続できない。後者は(高い授業料、助成金、寄付、税に依存しているので)これもまた、一種の不労所得だ。
問答法的営み、バイアスの解除自体が経済的に自立できれば、筆者は理想だと思う。それは可能なんだろうか?
それを検討する前に、経済的自立とバイアス解除の両立はそもそも必要ない、という立場に触れておこう。
「まず、自分の幸福を追求し、その後、公の、普遍的立場からの善を果たそうとする」という常識人の道徳がある。この常識的中庸ではなく、「まず、普遍的立場からの善を追求し、幸福はその結果得られたら素晴らしい恩寵である(が不幸になってもしょうがない)」というカント的な道徳を採用する場合、他人の怒りを買うことも、生活が成り立たないことも問題ではない。
つまり、このカント的立場では、問答法の持続可能性は、問題にならない。憎しみで冤罪で殺されても、経済的に自立できず貧窮で死んでも、善がなされていれば無問題だ。
さらに言えば、たとえソクラテスが無駄死にし、プラトンがその意図をパロディ化したとしても、その思想の記述は、イスラム圏でアーカイブされ、ルネサンス期に解凍、合理主義的思考の復活から大航海時代、グローバル化を生む大きな要因になった。これは普遍的立場を標榜するリベラリズムの大輸出になった。ある意味大成功である。不遇の死を遂げた数多くの提唱者たちを除いては。
しかし、前回指摘したように、カント的善と個人的な生存を両立させようとすると、その実現の難しさから、現実主義への転向を生むか、あるいは、他人を糾弾するタイプの教条主義になりがちだと、筆者はおもう。
さらに我々は、カント的道徳を守った人々の、歴史的に悲惨な運命を知っている。さらに加えて、彼らの運命を知った上で「それでも」と粘るための信仰を持つのがとてもむずかしい。
カントの場合、物理的世界の外側かつ、我々の内側に(認識はできないが実践で知ることのできる)「物自体としての神」を温存できた。カントの道徳では、善を実行するのは、究極的には「(行動を通じて)神を知るため」だ。
一方、我々は、生のままのカント的道徳を実行する困難が増した時代に生きている。このことは、そのままリベラリズムの困難、むき出しの生存競争主義の台頭につながる。
なので、もう少し弱く、そして可能な限り技術サポートのある倫理を求めたい。そこから、分散組織の政治哲学に関する糸口がみえるかもしれない。それを前回は「弱いアナーキズム」と呼んだ。
そのためには、カント的リベラリズムによるやせ我慢ではなく、経済的自立についても何らかの解決策がほしい。
次回からその辺りにすすむ。
冒頭画像
Vase of Flowers in a Niche, Attributed to Michel Bruno Bellengé, French
次回(coming soon)