分散化ソクラテス:(17a)普遍的立場による経済的自立
分散化ソクラテスは予測市場と結びつけることが可能だ。
前回説明した、重心のポジション、つまり、もっともノーポジションに近いサイトや人が、実際に誰になるのか?それは計算してみるまで予測できない。
もし、レトリック検証に必要な計算量が十分に大きければ、結果を先取りすることも難しくなるので、結果を予測する賭けが成立する。
そこで、重心に近い=普遍的立場に立つ主体やサイトを予測し、賭け金を投じることができるようにする。定期的に結果を発表し、参加者の掛け金を、賭けの参加者だけではなく、重心=普遍的立場に近い主体(たち)にも(たとえば重心からの距離に応じて)比例分配する。
この予測市場があれば、「できるだけ特定のポジションをとらないように話をする」という行為自体が、経済的価値を持つ事になる。
予測市場との結合は、普遍性の経済的自立を可能にする可能性がある。そして、もしそうなれば、論破されることへの個人的な憎悪以外に、もう一つソクラテスの問答法が持っていた課題である持続可能性もクリアできる。
本稿執筆時点では、できるだけ感情を掻き立てる表現を連呼してフォロワーを増やすポジショントークと動員が持つ経済的メリットが大きい。しかし、分散化ソクラテス+予測市場、あるいは類似物が拡大すれば、それは対抗軸になりうる。
普遍的立場は科学的な文章では当たり前で、基本的な立場だ(最近はフェイク業績も多くなってきたが)。しかし、再現可能性や反証可能性がないタイプの文章に対しては、分散化ソクラテスのようなメカニズムがないと、「どれも同じようにポジショントークである」という相対主義や反知性主義になりやすい。
そして、これらの立場は、内部に虚しさ、虚無を抱えた個人を大量に生産する。そこが「相対化できない崇高な理念(国家、差別、宗教、なんでもいい)」に命を捧げる、という相対主義への反動、つまり、全体主義に利用される。どうせみんな同じなら、面白いやつでいいや。地獄への道は善意からも、覚めた酔狂からもできている。
そして、筆者は全体主義が嫌いだ。
嫌い?なぜ突然ここで趣味判断なのか?
冒頭画像
The Return of Neptune, ca. 1754, John Singleton Copley, American