分散化ソクラテス:(15)分散組織にしかできないこと
レトリック検証は、何らかのAIによる大量の文章解析を伴うだろう。この解析作業を分散化するブロックチェーン・分散組織をつくることはできる。
作業やリソース提供に報酬を払ったり、レトリック検証アルゴリズムの妥当性確認を、解析担当とは別の主体が検証することもできる。この辺りの基盤になりそうな技術はすでに、計算リソースの分散化や、様々な妥当性検証の仕組みとして数多くのブロックチェーンプロジェクトで稼働しつつある。
理想的には、情報の「意味内容」まで含めて、「「特定主体のコントロール下で偏向させることができないこと」を誰もが了解せざるを得ない仕組み」がいい。
現存するのは、「取引台帳」、「文書データ」など単なるデータレベルでの保証だ。だが、近年、自然言語処理の技術革新によって、個々の文書について、AIがある程度意味内容を拾えるようになった。限られた状況下では、すでにチューリングテストに合格しているタスクも多い。つまり、意味の層でも、いずれ分散化された内容検証が可能になるはずだ。
意味内容にほとんど踏み込まず、「語り方」の偏向のみを検出しようとするレトリック検証は、その最も素朴なスタート地点となる。
もちろん、どのような方法論によるレトリック検証も、(文字通りのデータ同一性保証でない以上)結果が正当でない可能性がある。人種差別的な文を多く含むデータで学習したAIがそうした類の発言を繰り返すチャットボットになったとする。それはプログラムの意図としては間違っていない。が、正当とは言えない。そもそもアルゴリズム+データの組がおかしいのだ。だから、多様なレトリック検証AIによる検証作業が並立し、実行用ソースコードも、データも、実行結果も透明で、再検証可能であることが理想だ。
意味内容に踏み込まない字義通りの同一性から始まって、レトリック操作による印象操作がない→意味・事実が間違っていない→議論・推論が妥当である、と順に妥当性の保証が難しくなっていく。「妥当性の(分散化された)保証」という概念がどのレベルまで有効でありうるか、ということまで含めて、まだ未踏の領域だ。だが、この領域に踏み込んで初めて、水掛け論や相対主義だらけになってしまうことが多い意味や意図、主観的評価に対する「ある程度の客観性」が出現しうるなら、その意義は大きい。
このような仕組みに対する試みはまだ存在しない。計算リソース保持の仕方や意味の保存・通信フォーマット・プロトコル、適切なユーザーインターフェース、経済的モチベーションなどが無い関係で即座に作るのも難しい。ただ、原理的に最も困難だった「個々の文書の意味内容をある程度計算機に理解させる」という部分は急速に解決しつつある。
ただ、前回述べたように、ある特定プラットフォームが、「独自の判断・アルゴリズムにより」何らかのレッテルを貼る行動は、透明性が確保されないなら、大規模なポジショントークとすら解釈できる。現にトランプ元米国大統領の支持者が、トランプ氏をSNSから排除する企業(FacebookやTwitterなど)の動きに対し、そういった反論をしてきた。
既存企業の運営は、現実的には少数の経営陣の意思決定に依存する。彼らが何らかのバイアスを持っていない、と猜疑心を持った人に対し証明するのは不可能だ。ちょっと気の利いたフェイクニュース作者なら自分のドキュメントが警告対象になったことを燃料にいくらでも新しいフェイクニュースを生成できる。
この「少数意思決定者による(他者からみて恣意的な・当事者にとって善意でありうる)方針変更可能性」を、既存の組織から除去するのはとても難しい。中央集権的な組織というものが、そもそも「少数意思決定者の意思を拡大する手法」であるともいえるからだ。
ゆえに、レトリック検証という作業は、原理的に分散組織でしか実行できない。なぜなら、前回触れた「レフリーの信頼不能性」を克服することが中央集権的組織ではできないからだ。換言すれば、「「特定の誰かの意思によって変更できないこと」が知られていること」を、そもそも必要としている。
これは、最初期のブロックチェーンであるビットコインが、「金融政策方針を誰か(恣意的に・善意で)が決める」ということに対し、「そのようなことができない仕組み」として提案された時に、すでに潜在的していた「分散組織にしかできないこと」の本質だ。
レトリック検証の場合、分散化による正当性保証の対象が「通貨発行量の適切さ」から「情報にかかったバイアスの無さ」まで抽象化している。が、「ある特定の権威に委託することが、そもそも原理的に正当と言えそうにない」ことがらの範囲が新たに発見されていっているだけだとも言える。
後で触れるように、分散組織は人工物でありながら、一種の新しい「自然」として振る舞うことができる。
先に触れた「意味内容に関する検証」が分散組織で行われるなら、その妥当性レベルと相関しつつ「自然現象としての「意味・意図」」という新たな領域が可能になる。筆者にとって、恐らくこれが分散組織の思想的意義だ。今まで、自然現象と主観的な意見に二極化されていた分野へ、中間的な領域が構造を持った形で出現しうる。もちろん、哲学や法学、その他人文社会科学は、自然言語で似たような中間領域を作ってきた。しかし、その時、無理やりエビデンス探しをして自然科学に近づけたり、「直観的に自然である」という分析哲学に頻出する言葉、「社会常識的にいって妥当である」という法的判断に頻出する言葉が、その客観性を疑わしいものにしていた。その疑いが結局、「レフリーの信頼不能性」につながっていく。直観的な自然さや社会常識がご都合主義的な歪曲に使われた事例はあまりにも多いからだ。
この記事を書いている時点では、たとえばタイムスタンプを用いてデータ改ざんの有無をチェックするブロックチェーンを用いたニュースサイトの実験がある。
また、少し違うが、ブロックチェーンは、誰にも検閲・削除できないファイルデータ保存という役割を果たすこともできる。香港の国家安全維持法によって廃刊・データ削除を余儀なくされた「リンゴ日報」のデータを、有志が自主的にファイルを永久保存する目的を持つブロックチェーンにアップロードしたニュースは、記憶に新しい。
これらは、「各国通貨政策に依存しない価値の保存」「中央集権を必要としない投機・投資(Defi)」に加え、「中央集権のシステムでは、原理的に真正性を保証できない情報の保存」という新しい分散組織の使われ方を世間に知らしめていくだろう。
恐らく、分散組織という思想の本質は、この真正性の保証で、価値の保存、ファイルの永久保存といった具体的な事例は、その副産物なのだ。逆にこのようにみると、ビットコインによる「価値の保存」が、その可能性だけでかなり大規模な投資・投機をひきつけたように、「分散化」という思想には、まだ、巨大な変化が内包されているともいえる。
分散組織が単純に「すべての意思決定が投票に依存する組織」だとすると、「意思決定が遅いだけの面倒な組織」になってしまうかもしれない。ゆえに、「なんのために分散組織が必要なのか?」とか「分散組織にしかできないことは何か?」という問いが成立する余地がある。だが、分散組織という思想はまだ自分にしかできない領域を開拓しつつある最中にみえる。いずれ、上のような問いが意味をなさなくなるような時代が来てほしい。
さらに、レトリック検証は嬉しいオマケもついてくる。
次回はそれについて。
冒頭画像
A Gatha (Contemplative Verse) by Fu Daishi (497–569), late 17th century, Bankei Yōtaku (Eitaku)