山本博文『殉教 日本人は何を信仰したか』光文社 2009

山本博文『殉教 日本人は何を信仰したか』光文社 2009

*以前、別のブログで書いた文章だが、加筆修正して転載する。

遠藤周作が書いた小説『沈黙』が、マーティン・スコセッシによって映画化され、上映されたのが2017年1月だった。私は、機会があって観に行くこととなった。小説は学生の頃に読んでいたから、何となくの内容は頭に入っていた。ただ、その時点では、信仰の問題が云々、といったありきたりな理解にとどまっていた。

せっかく観るのだから、その内容をより深く考えたい。そのための参考文献として読んだのが、山本博文さんによる新書『殉教 日本人は何を信仰したか』である(現物が見当たらないので写真は省きます)。

この書籍の刊行は2009年であり、スコセッシ版『沈黙 ─サイレンス─』の上映の8年前でありながら、『沈黙』と併せて読むと、大変に興味深いと思えるような内容に驚いた。

冒頭、遠藤版『沈黙』のストーリーが提示され、その中のどこが歴史的事実と異なる部分なのか、当時の考え方とは異なる部分などを、比較対照していく。例えば、日本人の村人が殉教する場面をみて、主人公のロドリゴがその光景を「みじめ」と報告書簡にしたためる場面などだ。国籍が違っても、殉教する姿を「みじめ」と記載することは、当時の発想としてはなかった、と言われる。

現代と異質な舞台設定を、現代人が共感できる思考法、感情表現で染め上げる、というのが歴史小説の常套的な手法だが、遠藤周作もまた、それを使っているということだ。特に、「白い人」や「黄色い人」などを読むと、遠藤が置かれていた時代の日本人の西欧コンプレックスという枠組みが強く作用して、批判するにしても従順になるにしても、「みじめ」と思わざるを得なかったのだろう。

山本の本は、別にそれを批判しているわけではない。遠藤の脚色を経由して、「殉教」の実態に迫ろうとしているだけである。

弾圧時代に日本人キリシタン(キリスト教徒)が読んだ冊子に、「マルチリヨの栞」というものがあると言う。「マルチリヨ」は殉教のことで、「マルチル」は殉教者のことだ。マルチルには「丸血留」という文字があてられた。

この文字を「まさに血だらけになって死ぬイメージである」と解説されている。確かに「血」という文字が入るだけで、なんとなくまがまがしい感じがする、というところまではわかる。埼玉県にも平将門の親族が処刑されたときのおびただしい血が流れたという由来の残る「大血川」という川があるが、やはりまがまがしい印象が起こる(のんびり釣りのできるスポットではあるが)。

この栞には「マルチル」としての栄光が書かれているが、栄光を最大限にまで高めるには、積極的に死へ赴き(望みにもえ)、艱難辛苦にも喜んで耐え、嫌がったり逃げたりしてはダメだ、ということらしい。

こういった書籍を読んで、その価値観に忠実にしたがう信徒が大勢出たがゆえに、日本においては他国に見られぬ大迫害時代が生じたのではないか、と山本さんは述べている。

この忠実さというメンタリティが、日本の特異性として抽出できるかもしれないということなのだろう。だからこそ「切腹」や「殉死」という現象を、山本さんは追っているという。昨今の、日本の情勢をみると「忠実さ」というメンタリティは、十分に発揮されているように思うが、その我慢がいくらも続くのだろうか、という思いはぬぐえない。

さて第二章では、秀吉が「バテレン追放令」を出したのはなぜか、ということが書かれている。理由は、秀吉が目指す国家体制の妨げになるからだと、本来はざっくりとらえておけばいいのだが、《妨げになるという認識》を得る前に、秀吉が見聞し報告を受けた出来事が、山本さんの本には豊富に紹介されている。

例えば、ポルトガル船を視察して、軍艦のようだといった場面とか。それをみていたキリシタン大名たちが、これを秀吉に献上したほうがいいと進言したことだとか。結果、人身売買や他宗門への迫害など様々な利権や既得権の侵害という事例などをもって総合的に判断して「追放」という結論に達したようだ。秀吉というと、晩年のファナティックさが際立つように描かれることも多いが、為政者としての判断は、この時点で必ずしもぼやけてはいないのではいだろうか。

それが、「弾圧」に移行するのは、どういう現象を見てなのだろうか。例えば、京都で宗門改めをした際に、キリシタンはさほど名乗り出てはこないだろうと思っていたら、ぞろぞろと積極的に表れてしまい、3000人を超えるような人数の登録があったという。全員処刑したら都中の人がいなくなっちゃうなあ、なんていう感慨を石田三成が抱いたそうである。

確かに、弾圧移行の理由には、ポルトガル系のイエズス会とスペイン系のフランシスコ会の対立も一因としてあっただろう。

イエズス会が「追放」宣告をうけたあと、それでも秀吉はポルトガルとの貿易に固執していたので、人格者である宣教師長(日本での実績もあるヴァリニャーノ)が懇切丁寧に交渉し、なんとか事態は鎮静化したようである。

ところが、そこに空気を読まないフランシスコ会が来て、しかも、托鉢修道会といって貧しい身なりで貧者にも平等にほどこしを授けていたりしたので、ふたたび京都はフランシスコ会信者の増加をみてしまうのである。

これには、イエズス会も困り果てる。せっかく、怒りを解いて、細々とやっていこうとしたところで、こんなに派手にやってくれちゃってまあ、みたいな気持ちに、なんとなくなったようである。

そんなおりに、スペイン船が土佐に漂着し、問答の末に、侵略の前には宣教師が入る、という解釈が可能な回答をしてしまうことで、ふたたび秀吉の逆鱗に触れる。これによって、京都では、キリシタン宗門改めを行い、先のような膨大な信者の積極的な登録をみた、というわけである。

結果、フランシスコ会の修道士たちと数名の日本人信者が、初めて殉教者となったのである。

その報を聞いて、イエズス会の責任者マルティンスは、殉教の場に行き、祝福を授けている。そして、その行為はその時点では咎められなかったのだ。その後、マルティンスは合理的な判断に基づき、日本を離れた。ヴァリニャーノやマルティンスという人々の穏当な行動や判断もまた注目に値する。

第三章で、は家康時代の「殉教」が取り上げられる。

家康の顧問には新教系の人物(三浦按針)がいたから、彼も迫害に対してはそこまで積極的ではなかったという。もちろん貿易にも野心があったため、公式には禁止だが、布教自体は黙認という状況が続いた。1612年に、再度禁令が出されるが、その背景には秀吉死去から10年あまりで、布教が結構な速度で進行していたという状況があったという。

この時期における史料から、日本人はなぜ信仰したのか、という問題を追究する節がある。純粋な信仰、病気の治癒、生活手段の獲得、平等な取り扱いという世俗的な理由も含めて、様々あったらしい。

そして、ふたたび家康は弾圧へと至る。

九州では、布教に関して、厳しく対応されることとなった。本書でとりあげている事例は、加藤清正の領地での出来事である。内政の失敗は家康による改易につながるという恐怖もあったろうから、布教の拡大を見逃すことはできなかったらしい。そんな中に熱烈な日本人の信者がおり、布教していた。捕縛、説得、対立、入牢、そして、殉教というプロセスをたどる。しかも、その地区の宣教師は、布教をほどほどにするように諭したという。穏当な判断だ。しかし、それは守られず、過剰な布教が目についたのである。この、ほどほどでやめておけば黙認するから適度を守りなさい、というメンタリティが日本人ぽい。この「適度」の理解が、いわゆる日本のハイコンテクスト社会、すなわち空気を読まざるを得ない環境として現れているように感じる。

九州における迫害に際して、日本人キリシタンが処刑の場にあっても落ち着いていることは、宣教師たちに驚きをもたらした。

殉教者たちの理屈は、「そこに到着すると、彼の名誉のために日本の習慣どおりに彼が自ら死を選んだことを態度で示す方がよいと考えていた馬之丞は」という報告に表れているという。先の「マルチリヨの栞」にも、武士が君主のために命を惜しまないのと信者が神のために命を惜しまないのは同じという比喩で、殉教を理解していた、ということが明らかになった。

当初、黙認していた家康は、何を見、何の報告を受けて、再度の禁教を判断したのか。

もちろん、家康は学究的・理念的な面を重視する人だったから、体制の支柱としては、日本化された儒教精神を仏教と折衷して民衆を組織化することを考えていただろう。それに反するキリスト教の教理面が邪魔だったから、という政治判断は当然あっただろう。

けれども、本書で示されるのは、聖遺物信仰における、死体の一部や服の一部を喜んで持ち帰り、崇める姿に、家康は戦慄したというエピソードだ。

江戸幕府期には仏教的観念は日常化していた。当然、ケガレの感覚なども家康だとしても共有していたし、ともすると、一般人よりも敏感だったかもしれない。だからこそ、こうした聖遺物をめぐる信仰のありかたに対して、感覚的に恐怖したのかもしれない。感覚的なものは理屈ではないから、否定しづらいし、内省的に検討もしづらい。こうした肉体的な恐怖が、追放と弾圧を家康に組織化させた、ともいえなくもない。

それにしても、秀吉の主力だった高山右近が、この時期まで、前田家の重職にいたというのも面白い。老いたとはいえ、戦場の駆け引きを知っている人物である。しかも、秀吉に近い。光秀の誘いにも乗らず、秀吉の大返しの先鋒を務めた人物でもある。もし、右近が、大阪城に入りでもしたら、全国の信者はかつて信長を苦しめた石山本願寺のように蜂起するかもしれない。

信仰がもたらす信徒のしぶとさを、家康は、三河の一向一揆を平定したときの辛苦で、いやというほど知っている。こうした、統一への総仕上げが、右近の国外追放という判断をすすめた、というのは、面白い経緯だといえる。

しかし、家康はまだ、こうしたアメとムチのバランスによって、全体をまとめる統治感覚に優れていたから、処刑そのものの実効性を疑い、宣教師の国外追放によって事を収めようとしていた節がある。

むしろ、その後を継いだ秀忠こそ、家康が死去した後、自分の政権基盤をかためることに神経質にあったあげくに、「大殉教の時代」を演出してしまうのではなかったのか。

秀忠は、領主にキリシタンはまかりならぬ、と号令した。だから、改易を恐れる藩主たちは、自国内での禁教の徹底を行う。結果、九州における殉教は増えたのだ。

例えば、板倉勝重という人物がいる。彼は、温厚な人格だったので、この時期、京都のキリシタンを捕縛はしたものの、無罪放免にしようとしていたら、秀忠が全部火あぶりにしろと命じたので、行わざるを得なかった、と書かれている。

幕府における二代目問題というのがある。鎌倉幕府の二代目は頼家。凡庸で執権政治への道を開いてしまったとされる(本当はどうなのかわからない)。室町幕府は義詮。義詮は例外で、非常に実直だったがゆえに、義満にバトンを上手に渡すことができた。義詮は、尊氏とともに戦場を若い時から駆けていたという事実もあるだろう。

で、秀忠だが、家康から受けたバトンは重く、大きかった。体制維持のためには、苛烈になり神経質になるのはしょうがないのかな、と思うが、秀忠の小物感、小心者感がハンパない、とさえ思う。

とはいえ、ローマ帝国のように、のらくらやりながらキリスト教の急拡大の中で帝権を維持するには、国教化するしかなかったんだろうな、とも思うので、なかなか難しい政治判断だったろうとは思われる。さすがに組織化された世界宗教は強いとさえ感じる。

この後、平山常陳事件というものがあった。朱印船貿易に従事している平山常陳という人物が、日本に渡航しようとしていたマニラの宣教師を載せて航海していたら、オランダ船に拿捕されて、幕府に密航の罪で訴えられた事件である。

平山もキリシタンであったが、それを隠していたし、宣教師たちも平山に迷惑がかかると思って、身分を隠していた。そして、こうした密告の背景には、東シナ海の交易ルートをめぐる、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、日本の朱印船従事者の紛争があったという事実だ。オランダ船は、平山を告発することで、東シナ海の日本人交易ルートを縮小させようとしていた。そんな信仰とは何の関係のないところで動く人間社会がいとおしいとさえ思う。

九州の領主たちは、これら民間の朱印船を利用しつつ、マニラ、マカオ、コーチシナといった東アジア拠点とのネットワークを築いていた事実がある。マニラの管区長たちは、日本にいけば殉教せざるを得ないので、もうあまり宣教師を送りたくないとも考えていた。やみくもに、本国から遠方にある組織の人員を減らしたくはなかったからである。日本国内の情報は入手できていて、殉教が美徳だといっても、わざわざ死にに行くことを勧めてはいなかったのである。こんなふうなことは、『沈黙 ─サイレンス─』の冒頭にも、描かれている。

しかしながら、やはり「元和大殉教」と呼ばれる大量の処刑が行われるのであった。

秀忠の治世は、《信仰者の存在》が問題なのであって、《信仰そのもの》までは手をつけていなかった。しかし、家光への代替わりを経て、秀忠は、《信仰そのもの》の禁止を、徹底していくのである。

政治的判断による思想の柔らかい禁止→思想を体現する存在者の禁止→思想することそのものの禁止

この歴史的流れは、たぶん、繰り返される。『殉教 日本人は何を信仰したか』から読み取るべきは、こうした流れに日本社会が陥りやすいという教訓であり、経験である。

《信仰そのもの》をあぶりだすために、踏み絵と拷問という手段がとられたのである。内面の自由の禁止という経験は、べつにジョージ・オーウェルの『1984年』に限ったことではない。もちろん、《信仰そのもの》を消し去ることはできない。そうではなく、ダブルスタンダードを生きていることを自分に認めさせることで、ニヒリズムへと人を追いやる。この宗教的多元主義の皮をかぶったニヒリズムを受容することが日本社会で暮らす知恵なのだ、と認めさせることが弾圧の目的だったのだろう。

その中でフェレイラという人物は、棄教して生き延びたという。だいたいの信者が喜んで殉教する中で、確かに異質な存在である。そして、そのフェレイラの棄教をめぐって、ロドリゴのモデルであるジュゼッペ・キアラが、真偽を確かめようと渡日するのであった。これが『沈黙 ─サイレンス─』の物語の始まりなのだ。

遠藤周作が、「多元的宗教主義の皮をかぶったニヒリズム」の根源を現代的解釈であったとしても、『沈黙』を通じて追及してみようと思った理由もわかる。

ちなみに、第5章では、「天草の乱」についても書かれている。基本「マルチリヨの栞」の考えでは、殉教しようという人が抵抗してはいけないので、天草の乱の犠牲者は、殉教ではない、とされる。なんともやるせない話だが、歴史とはこういう平凡でやるせない話の連続である。私たちの日常からして、そうではないだろうか。

いずれにしても、コロナ禍が終息し「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の観光をする際には、手元にしのばせておきたい一冊である。

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