比叡山延暦寺の鬼追い式:伝統芸能づくしの新春オニオニパニック弾丸ツアー(12月31日篇 その1)
遊びと祭式の本質的、根源的な同一性ということをまず受け容れさえすれば、清められた奉献の場が根本的には遊びの場であることが承認できる。そして「何のために」「なぜ」遊ぶのか、というような誤った問いなど、生ずる余地がなくなってしまう。
(出典: ヨハン・ホイジンガ (1973年) 「遊びにおける神聖な真面目さというもの」, 『ホモ・ルーデンス』, 中公文庫, 中央公論社, 57ページ.)
2019年から2020年にかけての、今回の年末年始は、つぎのような、「伝統芸能づくしの新春・オニオニパニック・弾丸ツアー」になる予定です。
・12月31日の大晦日に、比叡山延暦寺で、鬼追い式を見る。
・1月1日の初日の出の直前に、日吉大社で、大戸開き神事と、そこでおこなわれる、能の「翁」(日吉の翁)と、能の「高砂」の「四海波」を見る。
・1月1日に、比叡山延暦寺の無動寺谷の修正会に出席する。
・1月2日に、奥三河の東栄町の古戸で、花祭りの鬼の舞を見ながら夜を明かす。
・1月3日に、能楽堂で能の「翁」を見る。
ここでは、そのなかのひとつである、12月31日の大晦日におこなわれた、比叡山延暦寺の鬼追い式のようすについて、お話させていただきたいとおもいます。
鬼追式というのは、錫杖をもった錫杖師という僧侶が、貪瞋痴(とんじんち)の三毒(さんどく)を象徴する4人の鬼を退治する(降伏する)、という儀式です。
ちなみに、ヨハン・ホイジンガという人が『ホモ・ルーデンス』という本のなかで語っていることのなかに、「遊びと儀式は、本質的には、おなじものである」というような考えがあります。比叡山延暦寺の鬼追い式の儀式などについて、見たり考えたりしていると、『ホモ・ルーデンス』で語られているその考えと、そうした儀式のあいだに、いろいろとつながりをかんじるところがありました。
(ちなみに、「ホモルーデンス」というのは、「遊ぶ人」という意味の言葉です。この言葉は、ヨハン・ホイジンガがつくった言葉です。)
ですので、ここからは、比叡山延暦寺の鬼追い式のようすを紹介していくにあたって、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の本からの引用文もまじえながら、お話していきたいとおもいます。
「競馬場、テニス・コート、舗道上に描かれた子供の石蹴りの目、チェス盤は、形式的には神殿や魔法の圈と変わらない」: 遊びにおける空間の隔離と、儀式における空間の隔離は、おなじもの
この下の写真は、鬼追い式をはじめるまえに、僧侶の方が、儀式の場を清めるために、「法水」という水をふりまいてまわっているようすです。
この下の写真は、鬼追い式をはじめる合図として、僧侶の方が、焚き火に火を点けているようすです。
この下の引用文は、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の本のなかで語られている話のなかの、「遊びにおける空間の隔離と、儀式における空間の隔離は、本質的にはおなじものである」というような考えについての話です。
遊びの形式的特徴のなかでは、日常生活から空間的に分離されているという点が最も重要だった。一つの閉じられた空間が、現実あるいは観念のなかで、日常的な環境から遮断され、境界を設けられる。遊びはこの空間の内部で行なわれる。そこで適用されるのは遊びの規則である。一方、いかなる神聖な儀事の場合にも、神に奉献された場を標示することが、儀式の最初の、第一の特徴である。祭祀において区画ということが求められるのは、呪術とか法律行為に際してそれが要求されることをも含めて、単なる空間的・時間的な隔離への要請をはるかに超えた問題なのである。奉献式、成年式の慣習を見ると、ほとんど全部の場合、式の執行人たちや新たに成人に加えられる青年に対し、人為的に選別、隔離という状態のなかに入ることが求められている。宣誓とか、騎士団、教団への加入とか、誓式、秘密結社とかの問題が語られるところ、そこにはつねに何らかのやり方で、そういう行事に必要な、遊びにおける隔離が行なわれている。魔法使、予言者、奉献者は、まず浄らかに祓われた空間を定め、これを周囲とはっきり画することから事を始めるものだ。秘蹟や密儀も清められた場が前提にある。
その形式からすれば、奉献の目的のために場を画することと、純粋な遊びのためにそれをすることとは、まったく同じものだと言える。競馬場、テニス・コート、舗道上に描かれた子供の石蹴りの目、チェス盤は、形式的には神殿や魔法の圈と変わらない。(出典: ヨハン・ホイジンガ (1973年) 「遊びにおける神聖な真面目さというもの」, 『ホモ・ルーデンス』, 中公文庫, 中央公論社, 56ページ.)
「儀式を執り行なっている奉献司祭もやはり一種の遊びをしている」: 遊びと儀式は、おなじもの
この下の写真は、鬼追い式のようすです。鬼追い式に登場するのは、つぎの5人です。
・錫杖師: 錫杖をもった僧侶
・黄色い「笑い鬼」: 貪欲(とんよく)(むさぼりのこころ)の象徴。
・赤い「怒り鬼」: 瞋恚(しんに)(怒りのこころ)の象徴。
・青い「泣き鬼」: 愚癡(ぐち)(不平不満のこころ)の象徴。
・無明鬼(むみょうのおに): 貪瞋痴(とんじんち)の3つのこころをすべてあわせもった最強最悪の鬼(人間のすがたそのものの象徴)。
この下の引用文は、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の本のなかで語られている話のなかの、「遊びと儀式は、本質的には、おなじものである」というような考えについての話です。
この考え方の筋道をさらに祭祀行為まで延長して、供犠の儀式を執り行なっている奉献司祭もやはり一種の遊びをしている人間という点では同じである、と主張できないだろうか。そして、もしこのことをある一つの宗教に対して認めるならば、結局すべての宗教について、それを同様に認めざるをえなくなるであろう。そういうことになれば、祭式、呪術、典礼、秘蹟、密儀などの観念はことごとく遊びという概念の・適用領域に納まってしまうのではないだろうか。
〔中略〕
私は、聖事を遊びと呼んだとしても、それで言葉の遊びにおちいったものとは思わない。形式からすれば、それはどう見てもやはり遊びなのであり、またその本質からいっても、聖事はそれを共にした人々を、別の世界へ連れ去ってゆくというかぎりでは、やはり遊びなのだ。(出典: ヨハン・ホイジンガ (1973年) 「遊びにおける神聖な真面目さというもの」, 『ホモ・ルーデンス』, 中公文庫, 中央公論社, 53~54ページ.)
「祭祀が遊びの上に接木されたのだ」: 儀式の根源にあるのは、遊び
この下の写真は、鬼追い式のなかの、無明鬼(むみょうのおに)が登場する場面のようすです。(無明鬼(むみょうのおに)というのは、貪瞋痴(とんじんち)の3つのこころをすべてあわせもった最強最悪の鬼です。)
この下の引用文は、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の本のなかで語られている話のなかの、「儀式の根源にあるのは、遊びである」というような考えについての話です。
かつては表現の言葉すらもたなかった遊びが、こうして詩的形式を帯びるようになる。われわれ人間は宇宙秩序のなかに嵌めこまれた存在なのだという感情が、一つの独立的な質である遊びという形式、遊びという機能のなかでその最初の言葉を発し、またおそらく最高至聖の表現をさえ見いだすようになる。このようにして、神聖な行為という意味合いがしだいに遊びに滲みこんでゆく。祭祀が遊びの上に接木されたのだ。しかし、あくまでも根源にあるのは遊ぶというそのことである。
(出典: ヨハン・ホイジンガ (1973年) 「遊びと祭祀」, 『ホモ・ルーデンス』, 中公文庫, 中央公論社, 51ページ.)
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
(この記事には、有料部分はありませんので、ご注意いただければとおもいます。m(_ _)m)