こんなハンネしてて仏門に居るわけでもないんですが、ハンネどおり説教してみましょうか?
こんばんは、和尚です。
写真は、三重県津市の四天王寺のご朱印です。四天王寺なのに、四天王が居なかったのは驚きでした。
坂本さんのこの記事のコメ欄で、「別離」についてというお題を頂戴いたしまして。
お金についての話も、音楽についても(JNWさんごめんなさい、次ヨナ抜き節について語ります)、ちょっとなんだか書く気が起きないなあ。とか思ってたらお題を頂戴したので、これについて筆が赴くままに。
25年続けた現代の宮仕え(=サラリーマンですよ)を去年辞めて1年経ちますが、いったい何だったんだろう?とか、果たしてあれは本当に現実のものだったのだろうか?と思ってしまうことも多いんです。実際。
こないだ夢見まして。フリーターになった今なら「ショーモナイ」という一言で片づけられることでクダクダと上司に叱られる夢を見まして。ハッと目覚めて、目覚めが悪いというのはこういうことを言うのか、いったい何にこだわっていたんだろう、とそう思ったわけであります。
話がそれましたが。
「執着」という言葉があります。仏教ではどういうんだろうと思って、リンク先覗いてみましたが、半分くらいしか理解できませんでした(笑)が、まま簡単に言えば
「人やモノやカネとの「関係性」を永遠に維持しようとすること自体が不幸の始まり」
とわたしゃ考えております、ハイ。
坂本さんは人間との関係性についての執着を語っておられましたが、例えば今、自分はとあるコワキでJKの愚娘の試験勉強に付き合いながらこれ書いてます。まあ他人から見ればうらやましいかもしれませんが、この関係性もいつまでも維持できるもんでもないでしょう。赤ちゃんの頃は、まああまり癇癪を起さない娘ではありましたが、お世話は正直しんどかったよなーと思います。そのこと自体は感慨もありますが、まあこうして元気に育ってくれたのもありがたいなーと思いますが、嫁に行ったらこんなことなんてないでしょう(行けるかどうかのほうが不安ではありますが)。とか考える時点であまり執着心のない男かもしれません、私は・・・。
多分、娘の結婚式では多少は泣くんでしょうが、次の日にはまたしんどいといいながら楽しんで仕事をしているような私だと思います。
人間だから多少の別離の寂しさはあるんでしょうが、出会えばいつかは別れも来る、それは避けられ得ないことなのであれば、それが人工的なものであれ(離婚、離縁など)、自然なものであれ(言うまでもなく死別ですね)、生きていくうえでは「絶対的に受け入れねばならない心持ち」を訓練しておく必要があるのではないか、と、うん、最近そう思っております。
ただ、この「執着」という感情、物語や歌などのテーマになっている、ということを考えてみても、なかなか人間、このテーマから離れられないのではないか、とも思うんです。
いまパッと思いつくのが、あみん「待つわ」、石川ひとみ「まちぶせ」。古いな。最近だと髭男の「pretender」がそうですよね。
文学作品で言えば、曾根崎心中とか、まあ結局のところ恋愛ものだと、ほぼ執着する心と現実とのギャップに悶えるみたいな感じですよね。そのギャップを埋めようとして努力する人間に共感し、その結果成就したり破れたりするんだけど、小説とかがいいのはハッピーエンドになって、おしまい!というところかなと。
ただ小説自体も「終わって」しまい、いったんは小説との「別離」を味わうというこのイレコ構造、誰もは一回は「この小説、もっと続いたらいいのに」という「執着」を持ったこともあるでしょう、このたゆたう世界観にずーっと浸っていたい、という気持ちは、すごーく分かる、そういう意味では私にも「執着心」ってのがあったのか、とちょっと今ほっとしました。だから物語には「続編」とかがあるんだよね、きっと。
ここで、いきなり西洋哲学が出てくるのですが、ハイデガーが言った
「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」
と執着を考えるならば、やっぱり考えて置くことは「死」なんでしょうね。結局現世で手に入れたものも、誰もが等しく手放さねばならないことになるのですから、執着と言うものがいかに人間を惑わすものか、とはいえ、生きているうちに悔いなく生きていかねばならないんだろうな、とか思っております。
さて、遠回りしました。
多分リクエストは「和尚よ、お前はサラリーマンという安定したところに『執着』せず捨ててしまった、その辺のところの説明を!」というところなんではないかな、と。こないだも誰かにそれ聞かれたし。
お陰様で、この1年いろいろな人にお助けいただきまして、今があります。今もこないだから間借りできるようになった、自宅徒歩5分の事務所で一人でこれ書いてます(このブログがきっかけでハマってしまったサザンを聞きながら)。
まあ前職も悪い仕事ではなかったのだけど、この文脈での『執着』というタームで語るならば、会社サイドに同質性を尊ぶ「執着」がひどすぎ、私みたいな異質な人間は・・・というところなんでしょうね、実際。
今、こうして離れてみてみると、こちらももう潮時をひっぱっていただけのような気がするし、やはり「安定」に執着してた面も否めないわけで。結局は結果論でしかないのだろうけど、最後まで残れて出世するような人間は、会社との相性も非常に大事であって、それは執着してこっちから寄っていこうにも受け入れてくれない、こうしたミスマッチもやはりあるわけで、それがなんだかやめる直前は顕著だったよなーとか。
はい、それはそれでなんだか平等のような気もするんですよ。いつまでも会社に居座れるわけでもなく、これもいつかは会社との別離がくる。
こちらはフリーターだから、いろんな仕事をいろんな人からもらうことを目標にしてきたこともあって(これの逆を経営学では「一社依存体制」と言って避けるべき危険な状態とも言います)、この1年でもお仕事のお付き合いの別離も少なからずあったし、もちろん新たな出会いのほうも多いんだけど、一定量の別離はあってしかるべきなんだろうな、とそう覚悟を決めてきたんですよね。それは間違いではなかったかなと。
その感覚って、人生では絶対的に必要ではないかな、と。そりゃご縁を切ることなんて寂しいし、そもそもそんなことしたくないしね。それでもやらなきゃならない時もある。この人と付き合ってちゃ、ちょっと辛いなあとか、そういう時は、決断の時もある。
もっと書きたいけれど、夜も更けてきたし、雨脚も強くなってきたので、そろそろ帰りますね。
このテーマを与えてくださった坂本さんに感謝、
とそして
合掌。