雑記
ひとまず決算書の作成が終わり気持ちも落ち着いてきたのでたまには脳内の澱でも洗い出そうかと
澱とは
ワインの底にあるカス。澱が出ないようにワインを注ごう
法人税
さて、法人税はクソ高かった。一年間調整してもやっぱり高いし利益のほぼすべてが消し飛ぶ。社会保険料どうなってんだ。社会保険料についてわかりやすく説明すると、「年間2万~6万、またはそれ以上のサブスク料金を払って医療を受けることができます。ただし料金は収入に応じて変動しますが受けられるサービスの品質は変化しません」
社会保険料は勝手に上がるし私は会社からも出す作業をしているので実質全額負担みたいでとても気分が悪い
価値観
とにかく敵が多い。見方以外全部敵と仮定すると敵が多い。ここで難しいのは、自分にとって弱い立場の人だからといって自分の正論・正義をぶつけてたたき折れば良いという話ではないということ。
価値観が違い自分自身にとっての正義が違うと言うことは、話し合っても解決しない可能性があるということ。自分にとっての正義と相手にとっての正義が違うと言うことは、理解しあえないので別々に生きていけばいいのに、ああ難しい。
好き・嫌い
私はありのままの姿でいたいので、自分自身の好みはありつつも、相手に対してそれを強要せず、自然体でいてほしいと常々言っている。そのうえで私が相手を好きになったり、好きになれない場合は別の好きになれそうな人を探す。それなのに、好みを言わないから嫌いなんだろうとか、別の人と食事に行くのはどうなんだとか言われるとちょっと複雑な心境。「君は君の自然体でいてください。私は私の自然体でいるので。独占したいのであれば私の好みに合わせる必要があり、ひいては、あなたは自分を殺すことになる。結果的にその歪みがいつか限界が来るのです。だから、最初から自然体でいてください」と思うけれど、これもまた価値観の違いだろう。
余談だが、やはりそれでも自然体の人に突き放されると少し傷つく。一応好みと少し違うと思いつつもお付き合いしている以上少しだけ傷つく。そういう傷は新しい人としか癒せないけど、新しい人に行くとそれはそれで怒られる。なぜだ。。
価値観2
完全に価値観が一致する人はおらず、多少なりみんなちょっとずつ価値観をすり合わせて生きていくのがこの国。だから、大筋での価値観の共有はするけれどそれ以上の共有は(いずれ食い違いに気づいてしまうので)しない方がいい。
その理屈で言うと他人と接するときはそこまで仲良くならないのが正義だと私は思うのだけど、しばしばマブダチの二人組を見かけるとうーん凄いという感想しかない。
加齢
歳をとると価値観のアップデートが難しい。昔当然だったことが、現代ではありえなかったりする。大昔の日本では会話するとき目線を合わせてはいけなかったそうですよ。今は真逆ですね。
ここで世代の違う、特に古い世代の人と接すると価値観の相違にしばしば悩む。古い人が正義と思っていることが現代では通用しないわけだが、じゃあ自分の正義を言ったら伝わるか、理解してもらえるかというと、それは絶対にない。じゃあ話す必要ないか、最初から断絶すればいいかというと、それはそれでコミュニティの限界がくる。多少は話し合わないといけないのだ。明らかに価値観が古い人と。
すり合わせしたって、結局相手の価値観は古いし(現在ハンドルを握っている私からすると)間違っているのだが、相手は自分の価値観が正義であり間違っていないと心から信じているので。私はまだ経営する側なので、小魚が吠えてる程度の気持ちでいられるけど、サラリーマンの人って、そういう人が上司だったりするんでしょ?大変ですね。そういうストレスはほぼ無いので私は気楽なもんです。
さてここで問題なのは、自分自身の価値観も少しずつ古くなっていると言うこと。常に若い世代と会話をして、価値観を教えて頂いて、その価値観に迎合していく必要がある。もし読者が1mmでも「その価値観は間違ってる」なんて考えようものなら、もうすでに老化の始まり。世間から死すべきと後ろ指さされてりる高齢者の仲間入りだ。積極的に若い世代の価値観、行動倫理、ツール、購買方法すべてを積極的に学ぼう。
繰り返しになるが、老害の方々の価値観のやっかいなところは相手にとってそれは揺るぎない正義であり、不動であり、それに反発する勢力は敵に見えるということ。かりに今社会や会社やコミュニティを運営するのが老害であれば厄介だし、逆だとしても散々抵抗するからやはり厄介。相手にとって正義を論破することはほぼ不可能だし、論破する事自体に意味はない。意味はないけど、じゃあこちらが手を抜くと相手は「自分の持論が通じた、やはり儂は間違ってない」と勘違いを加速させてしまうので厄介。とにかく老害はどのレイヤーにおいても害にしか成らない。私はそう考える。早々にハンドルを渡し、次の世代がハンドルを握ったらぐっと口をつぐんで生きていきましょう。
福祉事業を通じて
仕事柄たぶん累積500人以上は高齢者に出会ってきましたが自分の我を通す高齢者は本当にやっかいです。家族や業者の意見は間違っていると思い込み、合理的かどうか関係なく、ただ古い自分の正義を貫くことだけに終始してしまう。本人が悪いわけではないが、大多数の高齢者は家族の業者の説明を聞いて合理的に判断して、結論を出し、それは基本的に周囲の同意を得られるものになっている。しかし一部の高齢者は合理的かどうか、費用対効果など、どうでもよい。意地になって価値観を貫いた人はだんだんと周囲の手も少なくなり、最後はケアマネさんと私だけになったりする。学校先生の校長クラスや市役所職員の主幹以上クラス、経営者などは面倒くさい。だから案件最初からケアマネさんも場数踏んだ人がくるし、福祉用具屋も経営者の私が呼ばれることが多い。私も気を付けないと将来は周囲からあんなに疎まれるのか・・・と今から怖い。
まとめ
文章の読み直しもしてないので読まなくてよいです。サーバーのリソース圧縮してごめんなさい。
たまにこういう澱を吐き出すと楽になります。