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■はじめに 今回は、カール・マルクス著の『賃労働と資本』についての話をしたいと思う。 ■労賃とは何か?それはいかにして決定されるのか? 労賃とは、資本家がもって一定量の生産的労働力を買取るべき、既存の商品の一部分である。 ■商品の価格は何によって決定されるか? 商品の価格は、その生産費に等しい。(ここで言う商品とは上記で述べた労賃のことであり、原価+付加価値として販売されているモノやサービスのことではない) そして、その生産費とは
キルケゴールの『死に至る病』を読んでみた。 死に至る病とは、「絶望」のことであるが、本書ではその絶望が3種類あると述べられている。 自己を持っていると意識していない場合の絶望(無知の絶望) 自己自身であろうと欲しない場合の絶望(弱さの絶望) 自己自身であろうと欲する場合の絶望(強情) 1の絶望はニーチェのいう「おしまいの人間(末人」のことである。また、カフカの『変身』においては、ザムザが虫になったにも関わらず、そのことには目もくれず、会社へ行けるか・家族を養って行けるかを心配している状態が、無知の絶望である。 2の絶望は、夏目漱石の『こころ』における、先生が叔父の裏切りによって堕ちた絶望である。なぜなら、先生は被害者として裏切られた事実に依存しているからである。 3の絶望は
カントの道徳的形而上学の基礎付けを読んだので、そのまとめと道徳的価値のある行為について考えてみた。 動物や、人間は本能に従って、自身の幸福を追求する。例えば、美味しいものを食べたり、金儲けをしたり、種の保存のために子作りをしたりなどが、本能に従った行為である。 しかし、人間は動物達と違って、本能以外に持っているものがある。それが「理性」である。この理性は、幸福になろうとする行為を妨げるものである。例えば、自分がものすごく空腹であり、目の前にパンと牛乳があったとする。本能に従えば、何も考えずにすぐに食べてしまうだろう。しかし、自分の横には瀕死の見知らぬ人がいた場合、あなたはその人にパンと牛乳を譲ってあげるだろう。これが「理性」によって実行された道徳的な価値ある行為である。
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