日吉大社の大戸開き神事(西本宮篇)と、能「翁」(日吉の翁)と、反閇(禹歩)の呪的歩法
日吉大社の大戸開き神事(西本宮篇)と、能「翁」(日吉の翁)と、反閇(禹歩)の呪的歩法: 伝統芸能づくしの新春・オニオニパニック・弾丸ツアー(1月1日篇 その1)
(「翁古面」(翁面)(日吉大社所蔵)『日吉山王光華』より)
天下のすべての術を行なうには、禹歩を知らねばならぬ。単に遁甲の術だけのことではない。
(出典: 葛洪(著者), 本田済(訳註), 「内篇巻十七 登渉」, 『抱朴子 内篇』, 東洋文庫, 356ページ.)
ここでは、2020年1月1日に、日吉大社でおこなわれた「大戸開き」という神事についてお話したいとおもいます。
大戸開き神事というのは、日吉大社で毎年1月1日の朝5時からおこなわれる儀式です。大戸開きの儀式は、日吉大社の、西本宮の本殿の正面の扉と、東本宮の本殿の正面の扉の、それぞれの扉をあけておこなわれる儀式です。
日吉大社の正面鳥居(日吉大社の入り口の鳥居)
大戸開き神事についての、事前告知のアナウンスの音声
西本宮の本殿前のかがり火に点火されるようす
西本宮の前から、松明が西本宮のなかへ運ばれていくようす
西本宮の大戸開きのようす(西本宮の大戸開きのときの、神職の方による「おおー」という警蹕(けいひつ)の声と、扉がきしむ音)
西本宮の大戸開きの祝詞(のりと)
日吉大社 大戸開き神事 西本宮 能「翁」(日吉の翁)
(「翁古面」(翁面)(日吉大社所蔵)『日吉山王光華』より)
西本宮から東本宮へ、松明を先頭にして列になって移動するようす
反閇(禹歩)について
日吉大社の大戸開き神事の儀式を見ていて、個人的にとても興味をひかれたことは、大戸開き神事の儀式のなかで、神職の方が反閇(禹歩)をおこなっておられたことでした。
反閇(へんばい)というのは、日本において、陰陽道の儀式や、神道の儀式や、伝統芸能の舞いなどにおいておこなわれる、力強く大地を踏み鳴らす、呪的な歩法のことです。
反閇(へんばい)は、もともとは、中国の道教の道術(仙術)における、禹歩(うほ)と呼ばれる呪的な歩法が、日本につたわって、そこから派生してでうまれたものです。
この下の動画は、日吉大社の大戸開き神事において、西本宮の本殿の前で神職の方が、反閇(へんばい)(禹歩(うほ))という呪的な歩法をおこなっているようすの映像です。
(この下の動画のなかの、0:23~0:28あたりと、0:40~0:45あたりのところで、ゆっくりと足を踏み鳴らして、「ドン」「ドン」と音を立てて歩いているようすを見ることができます。)
この下の動画は、日吉大社の大戸開き神事において、東本宮の本殿の前で神職の方が、反閇(へんばい)(禹歩(うほ))という呪的な歩法をおこなっているようすの映像です。
(この下の動画のなかの、0:06~0:11あたりのところで、ゆっくりと足を踏み鳴らして、「ドン」「ドン」と音を立てて歩いているようすを見ることができます。)
この下の引用文は、『抱朴子』(ほうぼくし)という本のなかの「登渉」という題名がつけられている一篇のなかに出てくる、山のなかでおこなう呪法や、「禹歩」(うほ)という呪的な歩法などの、道教の道術(仙術)についての記述です。
『抱朴子』は、4世紀中頃の中国(晋)において、道教の道士である葛洪(かっこう)という人が書いた書物です。ちなみに、「抱朴子」(ほうぼくし)というのは、葛洪(かっこう)がつかっていた号(ペンネーム)です。
『抱朴子』には、内篇と外篇があります。
内篇は、道教の道術(仙術、不老長生術)について書かれています。
外篇は、儒教の立場から見た政治や社会について書かれています。
この下の引用文は、このうちの、道教の道術(仙術、不老長生術)について書かれている「内篇」のなかの、「登渉」という一篇のなかにある記述です。
私は若年から山に入りたいという志を持っていた。そこで追い追い遁甲の書物を学んだ。なんと六十巻余りもある。その技術は簡単に熟達できるものでない。だからその要点を抜書きして『嚢中立成』(嚢中はハンドブック、立成は速修書の意)という書物を作った。しかし筆で伝えるべきものではない。今、そのあらましを述べる。思うに好事家が山に入りたいという時、やがてはその知識を持っている人を捜し求めるに違いない。そういう好事家が世に少なからずあるであろうから。
『遁甲中経』に言う、
道を求めんと欲すれば、天内の目、天内の時を以てせよ。鬼魅を劾(弾劾)し、符書を施すには、天禽(星の名。天符とも)の目、天禽の時を以てせよ。名山に入り、百邪・虎狼・毒虫・盗賊をして、敢て人に近づかざらしめんと欲すれば、天蔵より出でて、地戸に入れ。
すべて六癸(六つのみずのとの方角)が天蔵、六己(六つのつちのとの方角)が地戸である。また同書にはこうある、
乱世を避け、跡を名山に絶ち、憂患なからしめんには、上元(正月の節句)丁卯の日を以てせよ。名づけて陰徳の時と曰う。一名は天心。以て隠淪(姿を隠す)すべし。いわゆる白日に陸沈(隠遁)し、日月も光無し。人も鬼も見る能わざるなり。
またこうも言う、
仙道を求め名山に入る者は、六癸の日、六癸の時を以てせよ。一名は天公の日。必ず世を度る(不死になる)べきなり。
また言う、
山林中を往くには、まさに左手を以て青龍の上の草を取り、半ばを折りて逢星の下に置き、明堂を経て陰中に入れ。禹歩して行き、三たび呪して曰え、「諾。皐。大陰将軍(太歳神の皇后。子年戌におり十二辰を順行)よ。独り曾孫王甲にのみ開き、外人には開くなかれ。もし人の甲を見るあらば、以て束ねたる薪となさん。甲を見ざる者は、以て人に非ずとなさん」と。則ち持つところの草を折りて地上に置き、左手もて土を取り、以て鼻の人中に傳け、右手にて草を持ちて自らを蔽い、左手を前に著け、禹歩して行き、六癸の下に到り、気を閉じて住まれば、人も鬼も見る能わざるなり。
およそ六甲を青龍と言い、六乙を逢星と言い、六丙を明堂と言い、六丁を陰中と言う。
禹歩の足跡は☵☲既済の卦の形になる。第一と第二の足跡は勘定に入れないで九つの足跡が、交錯しながら重なり続く。一歩の距離は七尺。合計の距離が二丈一尺。ふり返ると九つの足跡が見える。
また禹歩の法とは、まず正立する。右足が前にあり、左足は後ろにある。次に左足を進め、次にまた右足を進める。左足を右足に引きつける。あわせてこれで一歩である。次にまた右足を前に出し、次に左足を前に出す。右足を左足に引きつける。あわせてこれで二歩。次にまた左足を進め、次に右足を進め、左足を右足に引きつける。あわせてこれで三歩である。これで禹歩の法は終る。天下のすべての術を行なうには、禹歩を知らねばならぬ。単に遁甲の術だけのことではない。(出典: 葛洪(著者), 本田済(訳註), 「内篇巻十七 登渉」, 『抱朴子 内篇』, 東洋文庫, 354~356ページ.)
日吉大社 大戸開き神事 東本宮 祝詞をあげているようす
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
(この記事には、有料部分はありませんので、ご注意いただければとおもいます。m(_ _)m)