デジタル社会における芸術活動について考えること

デジタル社会における芸術活動について考えること

最近芸術とは何だろうと考えることが増えたので。このあたりアート界隈の人々はどのように考えているのだろうかと頭を巡らせる独り言。

コロナ下の時流と手元の技術のおかげで創作活動を行う若者が11%→24%に増えたという。
※1 株式会社SIGNING."Covid-19 Social Impact.Report".株式会社SIGNING.https://signing.co.jp/pdf/release0501.pdf2020.5.1

デジタルツールが熟成されてきた今、アートの意味が不確かにも感じるかもしれない。人の内から発露するものをカンバスに落とし込む。それが娯楽的であるか、社会批評などマスに影響するかどうかは芸術そのものの定義とは結び付ける必要はない。アルチザンから発せられる実用的な、器や籠のような柳宗悦のいう民藝品も時代を経て美術に包括されてきた。日本民藝館には無名の作家のテキスタイルや陶器が飾られている。自分はただアマチュア的に歌を歌い、写真を撮り、印刷する。それも自分の中の欲求や美感を回復させる行為で、創作活動であると十分に思っている。誰が認めようが、認められなかろうが、価値が付こうがつかまいが、芸術は芸術であり、人々の手の中にあり、等しく尊い。

そこで近頃危うく感じているのが、NFTだからそのものの価値が可視化されたと感じられるような表現。実際、周囲のこの話題に触れたての人がそのように感じているのを見受けることが増えた。率直に言って、電子ゴミは電子ゴミである。(自分は電子ゴミNFTを多産して自己満足に浸るしAxie Infinitieで遊んだトークンは眠ったままだ。電子ゴミが転がるサイバーパンクなネット風景も愛おしい)。元データから改変しやすい分、再生産と改変は容易だ。自分はNFTはシステムとして考えていて、もちろんそのシステムをミディウムとして内包したメディアアートも現れるとは思うのだけれど、でもやはりシステムに思う。その意味で「アートNFT」の呼称を提起されるのは共感するところである。勿論、NFTを用いたムーブメントが起こること自体は、時代性とその中での生を感じられる最高の体験だ。VRのアートギャラリーを作成する方々の活動は本当に尊く、実際に参加し感動した。
参加者で盛り上げ、この時流を活かし、まずは創作者に還元される流れを作らないといけないとも思う。
ただ、それをバズワードになった"NFTである事実"だけで価値が保証されるような表現で、自身のフォロワーを用いて拡散してポンプ的に価格設定が前面に表出することは非常に資本主義的で、「その世界面白いっけか。」と感じることがあり、もやもやしている。にゃーん。勿論、古くは芸術活動で食べるには宮廷のパトロンが必要だったし、そういう人物による作品は多々残っている。大原美術館などその点において凄い活動をしていた。(現代の投資家側目線や、資産性が十分に表れた作家や、勢いを感じる手前の作家の作品を購入する資産家のお気持ちは異なるだろう。小口のアート投資ブームはどう捉えられているんだろうか、ギャラリーや収蔵性が低いなら資金調達の範囲な気もする)。アートの価格は大衆に標準として落とし込むことはなかなかに難しい。何年と、または作家の死後数十年してようやく合意形成ができるように。

折角デジタルツールが大衆化し、pixivが現れ、メルカリが現れ、人々の捜索活動はだいぶ民藝でいう無銘性※2を帯びてきた。
※2.無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
柳宗悦."「民藝」の趣旨―手仕事への愛情".日本民藝協会.https://www.nihon-mingeikyoukai.jp/about/purpose/
人々に創作活動が民主化されたことで、youtubeやtwitterには変態的アーティストが多数見受けられ、創作の道具と発信する手法が解き放たれ、誰でも創作活動を行える。

それを、「価格が付いた事実」を以て作品価値としてinterestsの力で合意形成を促すような振る舞いに強引さを感じてしまう。ある女性が作ったアクセサリーがバザーで出品したら見知らぬ誰かが購入してくれる。Spotlightで写真を挙げたら見知らぬ誰かが投げ銭をしてくれる。そんな慎ましさは美しくないだろうか。これは作家の自由性を踏まえると、多分に"メディア"と鑑賞者側のポイントなのだと思う。「わたしは特に~」の画像で育ち、モーニングCROSSを長年視聴してVRアートを地道に作り続けたせきぐちあいみ氏の作品が高額で落札されたことは大変喜ばしい。アーティスト側にクリプトの資本を還流することにもなる。当人たちの取引は当人たちが納得していればそれでいい。では全ての人々がその価格を基準に考えるべきかというと、それは個々の問題で、各々がコンテクストを読み解いて、合意形成が広がっていくもので、瞬間的に1tweetでその事実を以て合意しようとするのではなく考え語ることで醸成し分厚くしていくことが沢山ある。芸術活動の支援には昔からパトロンが必要なのでそのやり取りはプライベートギャラリーに閉じていればいい。しかしこの市場はパブリックで、多様な層が参入できるところがまた興味深い。作品の価値を訴えるのであれば価格を語ることとキュレーションを全部やる。一方で今は誰でも作品を作れ、数字に乗せて、数字を作り、それを量産できる。r>g。無銘の創作者には好機でもあり、逆に危機にも感じられる。地域のバザーで出会うような、評価数、購入歴、フォロワー数でない偶発的な作品との出会いがどう設計されるか。

自分がコンテクストを読み解いて価値があると思ったか、誰が付けた価値に一定程度の納得感が得られるか(得られなくてもそのお気持ち表明については不要なのでコンテクストへの議論でありたい)、あるいは納得感が不要なほどに語られつくされ暗黙の合意形成がなされたか。作家のコンテクストがなくても素材やテクスチャそのものの美しさで価値を訴えることもあるだろうか。いや、やはり素材とどれだけ対話出来るかか。

手法が民主化されたことに甘えて意味の分からないものを即ちアートと矮小化するのはよくない。今は資本とinterestsで一朝一夕で作ってみせることが出来てしまう。適当に作ったプロダクトに値段を付けてフォロワー数でinterestsをドリブンさせたICOと何が違うだろうか。ゲームやアートの側から長年闘ってきた素晴らしいプレイヤー達が乗るはずの波が幻滅されないことを祈っている。一見意味が分からないものでも平均的な美から逸脱して表現することの難しさと闘って文字通り"必死に"練られた図太いコンテクストがある。時代が流れる中で磨かれ、語られてきたコンテクストがある(黒人アーティストの作品への評価)。果たして本当に内から発露したエネルギーはあるか?美感でも、社会批評でもいい。作家性とも言える。執着でもある。魂さえ覗ければ何だってアートになりうる。油絵の具の反射と奇抜な色彩へのフェチズム、パスタスープの缶に込める社会批評。(自分は写真のピン甘、構図の妥協、一覧のトーンが整えない手抜きが多々あるのでこういう点にとてつもない素人さを自覚する)
逆に言えば、こういった問いがあるからこそまだまだ面白いことが出来る世界。

話は変わって、先日アーティストの話を聴いていたら「デジタルは忘れるからね」と言っていてなるほどと思った。購入して部屋の隅に置いておいた絵画は自分の死後に遺族が見つけてくれるが、自分のウォレットに閉まってあるデジタルアートはネットの海に飾られながら凍結される。(ソーシャルリカバリー?)
そのときに、データそのものの永続性と、物質性のあるアートが社会に落とめていた持続性は分け、どのようにしていくか考えないといけない。生きているうちにはコンテクストを語ることが出来ず(難解か、はたまた短命か、死を迎えたからこそ至る保存行為か)死後にキュレーションされ、評価されるアーティストの場合、作家遺族が金銭を受け取るか、死蔵したウォレットの中に人知れず二次流通の収益が積まれていくような。

色々考えてしまったけれども、本気で創作してる人はとても尊いし、それを支援している人も尊い。本気ともいわず、誰に見向きをされるものでなくとも、何か内から発露したものを何らかの手法で表現することも尊い。デジタル上で人との繋がりが変わって、表現のツールやインフラが変わっても、それを一層大事に感じた今日この頃。

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