神がなければ、すべてが許させる

 

神がなければ、すべてが許させる

ドストエフスキーのこの言葉、この意味について考えてみた。

この言葉は、実際にドストエフスキーが書いた言葉ではないのだが、著書「カラマーゾフの兄弟」の中の様々なシーンで、「すべてが許される」という言葉が使われている。また、前後の文脈からは以下のような言葉も発言されている。

「人類から不死に対する信仰を根絶してしまえば、(中略)すべては許される」

「不死がなければ、善なんてないんです」

不死という言葉が使われているが、不死=神と解釈することができる(不死=神についてはここを参照)。このことから、「神がなければ、すべてが許される」という言葉として抽出することができるのだ。

では、この言葉の意味とは何なのか?

この意味を解明する鍵となるのは、物語「カラマーゾフの兄弟」に登場するイワン・カラマーゾフの心境を理解することである。

彼は、父親のフョードル・カラマーゾフをとても憎んでいる。口には出さないが、父親を殺したいと思っているのである。そんな彼は、論文を書いたり、物語詩である「大審問官」を考えたりし、人々に彼の思想を論じているのである。その思想というのが、何を隠そう「神がなければ、すべてが許される」というものなのだ。

しかし、これはイワンが父親を殺したいがため、また自分を正当化させるために考えた言い訳なのである。換言すると、イワンは自己欺瞞へ陥っているのだ。

無神論者であるイワンは、この信念をもって、父親殺しを遂行してしまうのだが、物語の結末ではイワンは自分が間違っていたことに気づき、法廷で全てを告白しようと決心したのである。

この「気づき」が重要なポイントだと思うのだが、なぜイワンは自分の誤りに気づいたのか?それは物語の文章を借りれば、

≪誇りたかい決心から生まれた苦しみなんだ、ああ、なんて深い良心の呵責だろう!≫

となる。この良心の呵責によってイワンが突き進もうとしていた不信仰への道から呼び止め、信仰への道へ進ませたのである。

 

ドストエフスキーが物語の中で使ったこの言葉は、否定的な意味をもっており、逆説的に換言すれば、「人間には良心が内在しており、そこから善悪の判断ができる」のである。

 

以上が、私自身の見解です。本投稿に関しての引用文は光文社の亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」から引用しています。

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