【カント哲学】純粋理性批判について

【カント哲学】純粋理性批判について

今回はちょっとした哲学についての備忘録です。

去年から色々な哲学書や古典小説を読んでいるのですが、中でもドイツの哲学者カントの「純粋理性批判」がとても面白かったです。だけど岩波文庫のは難解で、なかなか人にオススメできないんです。たまたま先週、書店に行った時に見つけたのがサムネ画像の「100分de名著」シリーズの「純粋理性批判」でした。100分de名著シリーズはテレビやオンラインで視聴できるのでオススメなんですが、書籍がでてるのを初めて知り買ってみたら、この純粋理性批判はサクサク読めてとても分かりやすかったんです。オススメです!なので同じものを3冊買ってしまいました笑

本書の内容には触れないですが、哲学者カントの功績は、我々は物自体を認識することができない、ことを明確にしたことです。換言すれば「答えが出せる領域と出せない領域を区分した」ことです。例えば、世界は有限か無限か?自由意志は存在するか?不死は存在するのか?といった問題は永遠に答えはでない、という証明をしたのがこのカントなんです。

この考え方は目からウロコだったんですが、それと同時に、この「区分」はイエス・キリストが分けた境界線を想起せずにはいられませんでした。

新約聖書マタイの福音書、納税問答には以下のような言葉があります。

では皇帝(カエサル)のものは皇帝に、神のものは神に返せ。(福音書岩波書店塚本虎二訳より)

これはユダヤ人がローマ帝国へ納税をするべきかどうかという問題で、当時ローマに属州されていたユダヤ人が納税をすることは反逆行為だとみなされていました。しかし、イエスが出した答えは、納税する貨幣を見よ、そこには皇帝カエサルの文字が書いてあるではないか、故にそれは皇帝へ返す(納税)べきだ。と答えたのです。

これによってイエスは世俗(現実の世界)と神の国(宗教の世界)を分けたわけですが、これはカントの言う現象界(人間の行動。客観的に認識できる世界)と叡智界(人間の心。客観的に認識できない世界)にそのまま投影することができるのではないでしょうか。

最後に、「純粋理性批判」では人間の理性の限界を暴き、しかしその理性をうまく使うことで人間の生きる目標を再構築することを目的としていました。科学が進歩した現代に生きる私たちは、科学の力を過信しすぎているような気がします。カント哲学およびカントが目指した「道徳的に良く生きること」の大切さを考えることは非常に大事で、勉強になるなと思いました。

次回は、物自体の認識と量子力学の共通点について書けたらいいな。

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