悪の存在論

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児童虐待、いじめ、セクハラ、パワハラ、強姦、強盗、殺人と数えたらきりのない犯罪が世の中には存在する。こららの罪は刑法によって裁かれる。刑法にはこれらの犯罪を抑止し、社会秩序を維持したり、犯罪者を更生する目的がある。しかし、どんなに冷酷な刑法を用いたとしても世の中から悪を消滅することはできないのであろうか。上にあげた犯罪は、必ずしも犯罪者に全て非があったわけでなく、人々が生まれ育った環境なり、運命なり、我々にはどうしようもない「自然の法則」が働いているようにも思われる。人類はこの不条理さに悩まされてきた。

「福音書」のイエスの戒めの一節に以下のような教えがある。

悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

どんな相手であっても復讐してはならず、赦す寛容な心を持ちなさいという教えである。さらに他の一節には、

情欲的な眼差しをもってある人妻を見る者は誰でも、自分の心の中ですでに姦淫を行なったのである

とあり、心の中でさえ卑しい気持ちを抱いてはならないと説いているのである。

ロシアの文豪ドストエフスキーはシベリア刑期中、福音書を熟読したとされるが、福音書の崇高さ、戒律の厳しさは一般人にはとても守ることができないと思ったに違いない。それが如実に描かれているのが「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の章である。その一節に「ヨハネの黙示録では、最初の復活にあずかった人々は各部族から一万二千人であった。(中略)それなら、残りの連中はどうなる?(中略)自由というあれほど恐ろしい贈り物を受け入れることができなかったからといって、このかよわい魂のどこがある悪いというのか?」と訴えている。神が我々に授けた自由が、人間にとっては重荷であり、この自由をもって善悪の判断をしなければならなくなったのである。

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コメント(4件)

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知識不足で所々分からないところがあるので本文の内容とは外れてしまうかもしれず恐縮ですが、個人的には悪は存在しないと思っています。

悪と言われる行為は「社会集団の維持を阻害するもの」でしかないと考えています。
ex.窃盗、暴行、個人的復讐、私刑
逆に野生生物、特に群れを作らない動物の世界では窃盗も暴行もされる方が悪く、強いものが正義です。
野生生物と人間で善悪の基準が違ってきます。
つまり人間が考える悪は人間社会上での悪でしかありません。
そして人間の社会集団にも種類がありその種類によっても善悪の基準が変わります。
ex.資本主義、共産主義
よって悪とは人間の脳内で作られた概念であり、判断基準は社会の維持を阻害するかどうかという曖昧なもの。そして社会は時代によって変わるので悪の基準も変わる。つまり普遍的な悪は存在しないという考えです。

【補足】
「カラマーゾフの兄弟」のイワンは「ユークリッド的な考え」を幾度か持ち出しており、人間の頭脳で理解できることはユークリッド空間的なもの、換言すれば、ユークリッド空間以外のものは理解できないと言っている。
これは哲学者カントの「純粋理性批判」における物自体を認識することはできない、換言すれば、人間には理解できないものがあることを想起させられる。
当然、ドストエフスキーはカントの純粋理性批判は知っていると思われるので、イワンの発言はそこからアイディアを取ってきているのかもしれない。
ただ、ドストエフスキーはカントの証明に納得がいかず、カラマーゾフの兄弟を通して、なんらかの解を模索したのではないだろうか。