国家と教会

国家と教会

ドストエフスキー文学の魅力は、カリスマ的な主人公による物語の展開である。『罪と罰』では主人公ラスコーリニコフが殺人という境界線を踏み越えることができるかどうかの一点にフォーカスを置いて物語が展開される。そのせめぎ合いは手に汗を握り、長編小説であることを忘れ最後まで一気に読みいってしまう。また、『カラマーゾフの兄弟』では父親殺しをメインテーマとして物語が進展していき、イワン・カラマーゾフの思想にはカリスマ性を感ぜずにはいられない。

今回は日本ロシア文学会に掲載されていた以下の論文についての簡単な紹介と、それに関連した僕なりの感想を交えて書いてみた。

『カラマーゾフの兄弟』における国家と教会の問題

上記の論文は、『カラマーゾフの兄弟』の主人公の一人であるイワン・カラマーゾフが小説内で展開する「国家と教会」についての論文・思想の考察である。

イワンにとって国家と教会の問題とは、国家の中にある教会という関係図ではなく、教会が国家を含み政治など一切を治めるべきだというもの。なぜなら、その昔、ローマ帝国がキリスト教国となった時、単に国家の中に教会を取り入れただけにすぎず、これは犯罪者が刑罰を受ければ罪の勘定がなされ、罪責意識を与えることができないという問題から起因したものである。すなわち、刑法に沿った刑罰を受けても更生できるとは限らない、ということである。

これに対してゾシマ長老は、国家の中の教会でも、犯罪者へ助けの手を差し出すことで罪を自覚させることができていると反論する。以下がその引用文である。

「もし現代において社会を守り,犯罪者を矯正して別の人間にするものがあるとしたら,それは自己の良心の中にあるキリストの掟以外にはない。キリストの社会,すなわち教会の息子として自分の罪を自覚するときのみ,人は社会,すなわち教会に対して罪を覚えるのだ。」ゾシマ長老より

物語の前半はイワンとゾシマ長老による宗教・教会側からのアプローチによる罪の自覚について話が展開するが、後半になると父親殺しにおける裁判、司法制度による罪へのアプローチへと移り変わる。『カラマーゾフの兄弟』ではキリスト教的な罪の認識が司法制度が発達した近代の法治国家の存在により、より一層その問題が色濃く浮き上がる形となる。以上が論文の結論で締めくくられているわけだが、以下に自分なりのの感想を書いてみた。

上記のゾシマ長老の引用にある「自己の良心」は、『カラマーゾフの兄弟』では重要なポイントだと思われる。

『罪と罰』では主人公のラスコーリニコフが犯した罪に対する自覚は、ソーニャに対する愛から生じ、「愛による救済と復活」が物語の締めくくりとなっている。

『カラマーゾフの兄弟』では、イワンの罪の自覚は、誰かの愛からではなく、良心の呵責から生じている。小説の中では、イワンは常に自分と戦っており(ラスコーリニコフもそうだが、ソーニャの存在によって愛が芽生える)、まさに良心との葛藤の連続である。

ドストエフスキーは『罪と罰』では罪に対して「愛による救済と復活」を試みたが、『カラマーゾフの兄弟』では、「自己の良心に救済と復活」を求めようとしたのではないだろうか。

さらに、『カラマーゾフの兄弟』には未完な続編が存在しており、そこではアリョーシャをキリストにたとえた物語を展開する予定であったらしい。そこでは、イワンの罪はアリョーシャの愛による救済と復活を描こうとしていたのかもしれない。

そう考えると、ドストエフスキーは物語の中で、罪の自覚は自己の良心へ委ね、またその罪にはキリストやその愛による救済と復活を信じていたのかもしれない。

以上が、論文を読んで僕なりに思った考えであり、やはりドストエフスキーは生涯、罪や悪に対する救済を求めもがき苦しんだ人間だったのだと改めて実感した。

僕達が生きる現代の一応は完成されたとされる法治国家でさえ、宗教や信仰、信念がなければ本当の救済と復活はありえないのかもしれない。

 

以下は過去に書いたドストエフスキー論のリンクを掲載するので興味がある方は読んでみてください。

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