常なるもの
「ドストエフスキイの生活」を最近読み、ふと小林秀雄の「無常という事」を思い出したので、読み直してみたら改めて感じたことがあったので、今それについて書いています。僕は小林秀雄については殆ど知識もなく、日本を代表する評論家ぐらいのことしかしらないのですが、偶然かどうかここ最近彼の著書をいくつか読む機会がありました。
自分はもともと読書をする習慣はなかったのですが、ある人物を知りたいと思うことで、その人物の本を読むという習慣がつきました。最近、知りたいと思った人物は近代絵画の父と呼ばれるポール・セザンヌ。セザンヌの絵画への傾倒は凄まじいものがあることを知り、セザンヌについて調べているうちに小林秀雄著「近代絵画」を読むに至りました。また僕はドストエフスキーについて以前から興味があり色々読んでいましたが、これまた小林秀雄著「ドストエフスキイの生活」をごく最近読む機会がありました。
ドストエフスキーは実存主義(人間は生きる目的を自ら見つけていく生き物)とよばれる思想をもつ人物でもありますが、それは生涯彼が考え書き続けてきた「人間とは何か?自己とは何か?」をテーマとした作品をみれば明らかなことです(例えば初期の「貧しき人々」から「地下室の手記」は一人称形式で書かれた小説であり、自己の内面を見つめあぶりだすためにとった手法だと思われます)。「ドストエフスキイの生活」の「罪と罰」についての章では、「罪と罰」の表題について作者は何も語らなかったが、その表題について小林秀雄はこう言って終わっています、「すべて信仰によらぬことは罪なり」(ロマ書)と。後年のドストエフスキーは「神の存在問題」について「カラマーゾフの兄弟」を代表とするさまざまな傑作を描き続けてきました。しかし、やはりドストエフスキーが導き出した答えは「すべて信仰によらぬことは罪なり」であったと思わずにはいられない、そんなことが感じられる本でした。
この本を読んで、ふと彼の有名なエッセイである「無常という事」について思い出したので、本棚の奥に眠っている「無常という事」を引っ張り出してきて改めて読んでいたのは、冒頭でも述べたことですが、この「無常という事」は、人は生まれてやがて死んでいく、この世は無常だが、常なるもの・永遠なるものも存在している。その永遠なるものとは、僕らのかけがえのない思い出であったり、信仰心であり、常なるものは心の中に存在するものだ、ということを謳ったエッセイです(と僕は感じました)。現代社会に生きる僕らはその常なるものを見失い、無常なるモノを追いかけ続けているのではないか、そんな風な批評さえ感じます。本エッセイの冒頭は、鎌倉時代の短文を集めた「一言芳談抄」とよばれる書物の一部の紹介から始まっていますが、それは、古人は念仏を歌ったりあの世を信じていた、そんな時代があったことを感じさせてくれます。
「ドストエフスキイの生活」、「無常という事」を読んで得た共通点は、昔は常なるものを理解していた、心で感じていた人々が、現代より多くいたということです。経済が発展して物質的にとても豊かになった現代社会ですが、その反面、精神的に貧しくなったように感じることがあります。物が溢れかえることで、本当に大切なものを失い始めたのではないでしょうか。もう少し自己の内面を見つめ直すための余裕を与えてもいいのではないか、そんな風に思いました。