奈良の大仏(東大寺の盧舎那仏像)を造立するために聖武天皇が出した命令書「造立盧舎那仏詔」について

奈良の大仏(東大寺の盧舎那仏像)を造立するために聖武天皇が出した命令書「造立盧舎那仏詔」について

東大寺の盧舎那仏像(通称: 奈良の大仏)
(画像の出典: "The Great Buddha" by JoshBerglund19 on Flickr (License: CC BY 2.0).)

「天皇(すめろき)の御代(みよ)栄(さか)えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く」

 ――大伴家持 (おおとものやかもち)『万葉集』第18巻[歌番号4097]

奈良の東大寺(とうだいじ)に、「奈良の大仏」として有名な、盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)という巨大な仏像があります。この東大寺(とうだいじ)の盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、743年に、近江国(おうみのくに)甲賀郡(こうがぐん)(現在の滋賀県甲賀市(こうがし))にあった紫香楽宮(しがらきのみや)において、聖武天皇(しょうむてんのう)が出した命令書である、「造立盧舎那仏詔(ぞうりゅうるしゃなぶつのみことのり)」という命令書にもとづいてつくられた仏像です。

「大仏開眼」寺崎広業(絵画) (出典)
(東大寺の盧舎那仏像の大仏開眼供養の儀式のようすを描いた絵画。) 

この上の絵画の画像のなかに描かれている、おそらく、聖武天皇だろうとおもわれる人物が描かれている部分を拡大したものが、この下の画像です。

「大仏開眼」寺崎広業(絵画) (出典)
(東大寺の盧舎那仏像の大仏開眼供養の儀式のようすを描いた絵画。)
(この画像のまんなかあたりに描かれている人物が、おそらく、聖武天皇だろうとおもいます。)


ちなみに、聖武天皇は、745年に、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の場所を、「新京」(首都)としてさだめました。そして、大仏(盧舎那仏像)も、紫香楽宮があるこの場所につくろうとしていました。ですが、この場所で、火災や地震がつづいたことから、4カ月後に、首都は平城宮(奈良市)にもどされてしまいました。それにともなって、大仏(盧舎那仏像)も、奈良の平城京にある東大寺でつくられることになりました。

ついでながら、滋賀県大津市の南部にある石山寺の創建についての伝説が記されている、『石山寺縁起』という絵巻物のなかにも、東大寺の盧舎那仏像の造立にまつわる、つぎのような主旨の伝説が記されています。

「東大寺の盧舎那仏像を造立するために必要な黄金が不足していたことから、聖武天皇は、良弁僧正に命令して、黄金が産出するように祈願させました。そして、良弁僧正が、石山の地(現在の石山寺がある場所)で黄金の産出を祈願していたところ、陸奥国で黄金が産出した、という報告が入りました。この陸奥国で産出した黄金をつかうことで、無事に東大寺の盧舎那仏像を造立することができました。」

この下の絵画の画像は、『石山寺縁起』の絵巻物のなかに描かれている、良弁僧正と、比良明神との、出会いの場面を描いたものです。良弁僧正は、黄金をさがしもとめて石山の場所まで来たときに、比良明神と出会ったとされています。

比良明神(岩に座して釣り糸を垂れる老翁)と、良弁僧正
『石山寺縁起』(絵巻)(一部分) (出典)

この下の地図のなかの、下のはしっこのほうのところに、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)にあった紫香楽宮の場所や、滋賀県大津市の南部にある石山寺(また、その前身である石山院)(伽藍山)の場所を図示していますので、ご参照ください。

香取本『大江山絵詞』における
比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図
(※地図の出典1)


この下の引用文は、『日本思想大系 8 古代政治社会思想』という本に掲載されている、「造立盧舎那仏詔」の文章についての、解説の文章です。

「造立盧舎那仏詔」というのは、「奈良の大仏」として有名な、東大寺の盧舎那仏像をつくるために、743年に、聖武天皇が出した命令書の文章です。

造立盧舎那仏詔

聖武天皇(七〇一―五六)が天平十五年(七四三)十月十五日、紫香楽宮にあってだした、大仏建立発願の詔である。聖武治世には国家鎮護を念じた仏教の保護育成が盛んに行なわれ、天平九年三月詔に「毎国令造釈迦仏像一軀、挾侍菩薩二軀、兼写大般若経一部」、同十二年六月条に「令天下諸国毎国写法華経十部幷建七重塔焉」とあり、同十三年三月には国分寺創建の詔がだされている。この詔はこれらを背景にしたものであるが、同時に華厳経の教義にのっとっていることも注目される。「夫有天下之冨者朕也。有天下之勢者朕也」の一句は、古来より有名であった。

(出典: 山岸徳平(校注), 竹内理三(校注), 家永三郎(校注), 大曽根章介(校注), (1979年), 「造立盧舎那仏詔」, 『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版), 岩波書店, 11ページ. )


この下の文章が、聖武天皇によって出された、「造立盧舎那仏詔」の命令書の文章です。

造立盧舎那仏詔(ぞうりゅうるしゃなぶつのみことのり)

 詔(みことのり)して曰(のたまは)く、朕(われ)薄徳(はくとく)をもて恭(かたじけな)くも大位(たいゐ)を承(う)け、志(こころざし)は兼済(けんさい)に存(あ)りて、勤めて人物(じんぶつ)を撫(な)でつ。率土(そっと)の浜(ほとり)、すでに仁恕(じんじょ)に霑(うるほ)ふといへども、普天(ふてん)の下(もと)いまだ法恩(ほふおん)に浴(ゆあ)みず。誠に三宝(さんぽう)の威霊(ゐれい)に頼(よ)りて乾坤(あめつち)相(あい)泰(やすら)けく、万代(よろづよ)の福業(ふくごふ)を修(おこな)ひて動植咸栄(みなさか)えむと欲(ほり)す。ここに天平(てんぴょう)十五年歳次(さいじ)癸未(みずのとひつじ)十月十五日をもて、菩薩(ぼさつ)の大きなる願(がん)を発(おこ)して、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅(こむどう)像一軀(ひとはしら)を造り奉(たてまつ)りつ。国の銅(あかがね)を尽(つく)して象(みかた)を鎔(い)り、大きなる山を削りてもて堂を構(かま)へ、広く法界(ほっかい)に及(およ)ぼして朕(わ)が知識(ちしき)と為し、遂(つい)に同じく利益(りやく)を蒙(かがふ)らしめ、共に菩提(ぼだい)を致(いた)さしめむとす。 
 それ天下(あめのした)の富(とみ)を有(たも)つものは朕(われ)なり。天下の勢(いきおひ)を有(たも)つものも朕(われ)なり。この富(とみ)と勢(いきおひ)とをもて、この尊き像(みかた)を造りたてまつりつ。事(こと)は成(な)り易(やす)く、心は至(いた)りがたし。ただ恐らくは徒(いたづら)に人を労(いたづ)かすことありて、能(よ)く聖(ひじり)を感(うご)かすことなく、或(あるい)は誹謗(そしり)を生(う)みて、反(かへ)りて罪辜(つみ)に堕(お)ちむことを。この故(ゆゑ)に知識(ちしき)に預(あづか)る者は、懇(ねもころ)に至誠(しせい)を発(おこ)さば、各(をのをの)介福(かいふく)を招(まね)かむ。宜(よろし)しく日(ひ)ごとに盧舎那仏(るしゃなぶつ)を三(み)たび拝(をが)みたてまつるべく、自(みづか)ら当(まさ)に念(おもひ)を存(たも)ちて、各(をのをの)盧舎那仏(るしゃなぶつ)を造りたてまつるべし。もし更(さら)に、人情(こころ)に一枝(ひとえだ)の草(くさ)・一把(ひとすくひ)の土(つち)を持ちて、像を助け造らむと願(ねが)ふものあれば、恣(ほしきまま)にこれを聴(ゆる)せ。国郡等(くにこほりら)の司(つかさ)、この事によりて百姓(おほむたから)を侵(をか)し擾(なや)まし、強(あながち)に収歛(をさ)めしむることなかれ。遐邇(かじ)に布(し)き告(つ)げて、朕(わ)が意(こころ)を知(し)らしめよとのたまへり。

(参考文献: 山岸徳平(校注), 竹内理三(校注), 家永三郎(校注), 大曽根章介(校注), (1979年), 「造立盧舎那仏詔」, 『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版), 岩波書店, 11~13ページ.)
(注記: 参考文献である、『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版)の本のなかの、「造立盧舎那仏詔」のところから引用した文章にたいして、引用者が振り仮名(読み仮名)を追加しました。)

 

下記は、上記の「造立盧舎那仏詔」の文章のなかにでてくる言葉についての補足説明です。

※乾坤: 天地。

※盧舎那仏の金銅像: 華厳経の教主で、毗盧遮那仏(毘盧遮那仏)ともいう。宇宙の象徴。金銅像は金の鍍金をした銅製の仏像。

※知識: 造寺造仏その他の功徳を協力して行うための信者の組織。

※遐邇: 遠近。

(参考文献: 山岸徳平(校注), 竹内理三(校注), 家永三郎(校注), 大曽根章介(校注), (1979年), 「造立盧舎那仏詔」, 『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版), 岩波書店, 12~13ページ.)

 

■画像の出典

・ "The Great Buddha" by JoshBerglund19 on Flickr (License: CC BY 2.0).
https://www.flickr.com/photos/79877212@N00/3306501856

・ 「大仏開眼」寺崎広業(絵画)(「大佛開眼」寺崎廣業(絵画)), 『国民日本歴史』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 68 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908695/68

・ [良弁と比良明神], 石山寺縁起. [1], 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:10 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2589669/10

 

■地図の出典
地図の出典1: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」を、加工・編集して使用しています。地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」は、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」のズームレベル9~13で表示される画像(地理院タイル)です。地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」のデータソース: Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像(courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)。くわしくは、国土地理院のウェブサイトのなかの、「地理院タイル一覧」のページhttps://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)のなかの、「2.基本測量成果以外で出典の記載のみで利用可能なもの」のなかの、「ベースマップ」のなかの、「写真」(衛星写真の画像)のところをご参照ください。

 

今回、お話させていただいたことがらは、琵琶湖の西岸の湖西地域と、酒呑童子の説話とのかかわりについての、たくさんの話題のなかのひとつです。そのほかの話題にも興味があれば、この下のリンクの記事をご参照ください。

香取本『大江山絵詞』の「平野山」と「近江国かが山」: 比叡山延暦寺による土地領有権説話としての酒呑童子譚
https://wisdommingle.com/?p=21616

 

「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」

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たくさんの人が、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうとおもいます。 https://yukinobukurata.bio.link/

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