『寺門伝記補録』に記された、園城寺(三井寺)の長等山の地主神としての、三尾明神の伝承について

『寺門伝記補録』に記された、園城寺(三井寺)の長等山の地主神としての、三尾明神の伝承について

ぼくはいま、酒呑童子(酒天童子)の伝説について研究しています。その研究のなかのテーマのひとつとして、「酒天童子は、比良山地の地主神である比良明神と同一視されている」という説について、いろいろと調べています。(くわしくは、こちらの記事をご覧ください。)

そうして調べていくなかで、滋賀県の湖西地域をはじめとする、琵琶湖周辺の各地には、比良明神(ひらみょうじん)や、白鬚明神(しらひげみょうじん)や、三尾明神(みおみょうじん)などの名前で呼ばれる、「老翁の姿をした神」についての伝承が残っていて、しばしば、それらの神々が同一視されたり、混同されていたらしい、ということがわかってきました。

また、その現象の周辺には、どうやら、比叡山延暦寺に代表される天台教団(天台宗の教団)の存在が見え隠れしているようだ、ということもわかってきました。

ちなみに、酒呑童子(酒天童子)の伝承を構成する重要な要素のいくつかは、天台教団がつくったといわれています。そうしたこともあり、比良明神(ひらみょうじん)をはじめとする「琵琶湖周辺の各地に点在する、老翁の姿をした神々」の伝承が、天台教団の手を通じて、酒呑童子(酒天童子)の伝承へとつむがれていったのではないかな、とかんがえたりしています。

この下の引用文では、そうした「琵琶湖周辺の各地に点在する、老翁の姿をした神々」の伝承のいくつかが紹介されています。この引用文は、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』という本からの引用です。

 琵琶湖を中心とした近江の各地には、老翁(老いたる神)が姿を表わす物語が点在する。たとえば甲賀郡水口在大岡寺の甲賀三郎譚で知られた『神道集』の「諏訪縁起」、蒲生郡奥島の大島奥津島神社の縁起「大島鎮座記」などがそれである。さらに大和国の長谷寺所蔵の『長谷寺縁起絵巻』中巻には、長谷観音の御依木となるべき仏木を運ぶ場面がみられるが、それを守護する「三尾(みお)明神」が老翁の姿で描かれている。同じ場面は白鬚神社にほど近い高島町大字音羽の長谷寺の「白蓮山長谷寺縁起」にもみられる。

(出典: 橋本鉄男(著者), 谷川健一(編集), (1986年) 「白鬚神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 348~352ページ.)

今回は、このような、「琵琶湖周辺の各地に点在する、老翁の姿をした神々」のなかの、三尾明神(みおみょうじん)についての記述がある文献を紹介したいとおもいます。

『三井寺法灯記』(みいでらほうとうき)

今回紹介するのは、『三井寺法灯記』(みいでらほうとうき)という本に収載されている、「寺門伝記補録」(じもんでんきほろく)という文献に記されている、三尾明神(みおみょうじん)の伝承についての話です。

(※ 「寺門(じもん)」というのは、園城寺(おんじょうじ)(三井寺(みいでら))のことです。「寺門(じもん)」と対になる言葉として、「山門(さんもん)」という言葉があり、こちらは、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)のことです。これらの「寺門」、「山門」という言葉は、もともとは、天台宗の内部の、寺門派と山門派という2つの大派閥を指す言葉でした。その後、比叡山延暦寺の天台教団の内部における、寺門派と山門派の派閥争いによる内部抗争は激化し、最終的に、寺門派は比叡山延暦寺から追い出され、天台宗は、寺門派(園城寺(三井寺))と、山門派(比叡山延暦寺)の、2つの宗派に分離しました。)

仁王門(大門)
(園城寺(おんじょうじ)(三井寺(みいでら)))

三尾神社(みおじんじゃ)
(滋賀県大津市園城寺町(おんじょうじちょう))

『三井寺法灯記』(みいでらほうとうき)

「寺門伝記補録(じもんでんきほろく)第五 祠廟部戊」
(『三井寺法灯記』(みいでらほうとうき)所収)

この下の引用文は、『三井寺法灯記』(みいでらほうとうき)に収載されている、「寺門伝記補録」(じもんでんきほろく)という文献の第5章(「寺門伝記補録第五」)に記されている、三尾明神(みおみょうじん)の伝承についての話です。

(※ この下の引用文のなかにでてくる「大師(だいし)」というのは、円珍(えんちん)(智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん))のことだろうとおもいます。)

三尾明神祠南院

 三尾明神は太古、伊弉諾尊あとを長等山に垂れ、国家を擁護し群生を利楽す、ついに長等南境の地主となる、この神つねに三の腰帯を着く、色、赤・白・黒なり、その形(形チ)、三つの尾を曵くに似たり、因て三尾明神と名(なづ)く、一時(アルトキ)三の腰帯化して三神と作(な)る、一にはいわく赤尾神、二にはいわく白尾神、三にはいわく黒尾神なり、すでにして三神わかれて三処に現ず、なかんづく赤尾を以て本神となす、しかるにその本神は太古の鎮座、ひとその始めを知ることなし山上祠、白尾神は 文武天皇大宝年中いまの地に現ず筒井祠、黒尾神は 称徳天皇神護景雲三年三月十四日、志賀の浦に五色の波を見はる、時に一翁あり、黒き腰帯を着け波水を踏んで東より来る、また一翁あり、赤さ腰帯を曵きて西の山よりして下る、両翁、途中に往き合い懽語((ねんごろに語り))時を移して、のち形隠(隠ク)る、土俗、一祠をその処に造り祭る、黒尾神これなり、地を鹿関(カセギ)、という、貞観元年春、開祖、大師、新羅・山王の二神と始て当寺に入る、時に乗輿の人あり、儀衛はなはだ儼なり、衆多(あまた)の眷属を将(もっ)て来て新羅神を饗す、神の鎮座を賀す、すなわち大師に謂(いい)ていわく「我、この処にありて師を俟(ま)つこと久し、今より已後師の教法を擁護しまさに慈尊出世の暁に至らしめんとす」、言いおわりて去る、大師、新羅神に問う「乗輿の人、誰(た)れ爲(な)るや」、神のいわく「長等の地主三尾明神なり」、大師、この言(こト)を聞てのちにその祠を復興し神像を摸刻して以てその中に安ず、それよりこのかた天台鎮護の神として霊威増すます崇(たか)し、
 また、本殿西の砌(砌リ)、白山権現の祠を建つ、これ即ち三尾の神、北道にありては白山明神と現わる、彼此(ひし)一体の分身なり、よって即ちここに斎き祭る、当社の敷地(シキチ)をもと琴(コトノ)緒谷と名く、谷、清流あり、昔時天人つねにこの処に降り、或は河水に浴し或は絲竹((琴・笛の類))を奏し舞戯、歌詠して神を慰す、この故に琴緒谷(コトノヲタニ)と名く。のちの人すなわち神号に従い緒を改めて尾和訓近となしすなわち琴尾谷と名くなり、
 また、社頭の東南近き処(処ロ)、一盤石あり、相伝にいわく時ありて三神会合す、必ずこの石上に坐す、故に是れを三尾影嚮((響))石と名く、
 また、当神の本地を立るに就て総別の二意あり、別はいわく、赤尾の神は普賢、白尾の神は十一面、黒尾の神は文殊なり、総はいわく、赤・白・黒の三神共に普賢大士なり、本神是れ普賢なる故のみ、当社日供十一膳、その中、白山、松尾に供するものあり、祭礼は毎年三月二の卯の日、谷の講演は月並(並ミ)十四日勤行す、当神使令(ツカワシメ)は免((兎カ))を用う、社司は秦ノ河勝の胤に臣国(ヲミクニ)という者あり、始て当社の神職に任ず、それより以来秦氏連綿して相い継ぐ、
  補にいわく、太神記を案ずるにいわく、赤尾は天照太神、普賢菩薩、黒尾は新羅明神、文殊大士、白尾は白山権現、十一面、合して三尾明神と号す云云、鎮座説に評していわく、或はいわく三尾はこの所の地主なりと或はいわく天照太神なりと、いまだ何(いづ)れが是なるかを知らず、或はいわく黒尾は新羅明神なりと、いま年月を以てこれを推すに相違するものあり、またいわく、余まさにこの書を修(おさめ)んとす広く諸記を索(もと)む、三尾の社司秦国村(秦ノ国村)、一紙の記を出す、文略にして義もまた明ならず、余その故を問う、村がいわく「当寺かつて回禄((火事))に係(かか)る、古記もまた火(や)く、ただ耆老の口授を記す、その可否は吾れ知らず」と、いま、その記を案ずるにいわく、三尾明神は伊弉諾・伊弉册の反((変カ))化にして譲りを面足に受け代を日神に授く、已上、座説、いま座説の意を案ずるに、本地普賢の説においては異義なし、尊(ミコト)の身を定むるについてはすなわち衆説を廃してついに国村記(国村ガ記)に隨い当神を以て伊弉諾尊(伊弉諾ノ尊)となるか、愚いわく、座説を以て正義となさん、ゆえんはなんとならば、越の白山縁起にいわく、神、神融禅師に告げていわく「我は是れ、天神第七、伊弉諾尊(伊弉諾ノ尊)なり」、いま妙理菩薩と号す、しかるに三尾白山は一体分身の神なり、彼の神、伊弉諾尊(伊弉諾ノ尊)ならばこの神もまたしかりなり、異義におよばざるものか、
 また、近江国高嶋郡にいます神号三尾明神延喜式の中、三又、は水につくる 名神、官社なり具に前、に見る その処を名て三尾が崎という、当年の三尾と同神か異神か、いまだこれを詳かにせず、或る人、余に語りていわく「養老年中、道明・徳道二僧あり、始めて長谷寺観音像を造る、その像材、近江国高嶋郡三尾崎より流れ出て漂して大津の浜に至る、時に材木の上、三つの小蛇あり、忽然として匐(ハヒ)出で陸に上り西の山を望んで去る、これ即ち三尾明神なり、つぶさに長谷寺縁起の中に出ず」、と、余、これを吾が旧記に検(かんが)うるに相似たるものあり、新羅太神記三尾縁起の下(しタ)にいわく、古徳の説にいわく、一時湖水に五色の波あり、その中、白色の大波、大津の浜に止まる、土俗(ヒト)その止まる處をいいて以て大波止(ヲホハシ)と名く、また、寄嶋という、その波の上、三つの尾の小蛇あり、是れすなわち寄嶋の明神なり、この説のごときは長谷寺の縁起と旨趣多く以て似同す、もしこれに依らば高嶋の三尾、養老年中この地に移るか、長谷寺の縁起を読まん、人これを詳かにせよ、釈書〹八いわく、長谷寺は比丘道明、沙弥徳道すなわち、道仙人なり 法力を勠(あわ)せて建る、その像材は、近州高嶋郡三尾の山より流れ出ず霹靂(へきれき)の木なり、
 秦河勝 秦(ハダノ)姓は新撰姓氏録〹一いわく、大秦公(ウヅマサノキミノ)宿弥は秦の始皇帝の三世、孝武ののちなり、男、功満王、仲哀八年来朝す、男、融通(ユツウ)王は一は弓月王という、応神天王((皇))十四年に来朝す、百二十七県を率いて帰化(ヲモムケリ)、金銀・玉帛等の物を献づる、仁徳天皇の御世、百二十七県の秦氏を以て諸郡に分(わか)ち置きすなわち蚕を養い絹を織り貢ぜしむ、天皇、詔にいわく「秦王、献ずる所の絲綿絹は朕これを服用するに柔軟(ヤワラカ)にして肌膚(ハダヘ)を温煖(アタタカ)にして姓を波多(ハダ)と賜う、秦公酒(ハダノキミサケ)、雄略天皇の御世、絲綿帛、委積して岳のごとし、天皇喜び宇都万佐(ウツマサ)と賜う文、或る記にいわく、河勝は化生の人、欽明天皇、秦姓を賜て臣となす、才智卓絶す、十五歳に至て大臣の位を授く、推古天皇の御宇、摂州難波の浦に往き小舟に乗りて去る、舟、播州の岸に着く、土俗(ヒト)あつまり観(み)る、その形、非常の人なり、よって神祠を立て之(これ)をまつり大荒(ヲホアレノ)明神という、

(出典: (1985年) 「三尾明神祠 南院」, 「寺門伝記補録第五 祠廟部戊」, 三井寺法燈記編纂委員会(著者), 三浦道明(監修), 『三井寺法灯記』(『三井寺法燈記』), 日本地域社会研究所, 248~251ページ.  )

 

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「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」

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