さいちー
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NFTアートとポスト複製技術時代の芸術
NFTアートはなぜゴミばかりなのか NFTアートはなぜつまらないゴミばかりなのか。そんなレベル1の問いが界隈から発せられなくなって久しい。 もはやNFTと芸術の話をしているのは、自己洗脳されたアーティストを除けば、ポンジ売りとポンジ売りワナビーの養分しかいないようにも見える。余計な議論は排して定型文を発し、カモの投資金を集めてみんなでエアドロに飛びついた後は粛々とゴミの出口流動性を探すババ抜きゲームに参加する。そんな光景が日常となった。 だが、そもそもNFTアートは何だったのか?まだ何かを産み出す可能性は残されているのか?今だこの問いが意味があると思われるのは、今まさに複製技術が大きな変曲点を迎えているからだ。この観点から再考したい。 複製技術時代におけるNFTアート まずベンヤミン『複製技術時代の芸術』を概観し、NFTアートの立ち位置を確認したい。 複製技術は、芸術からオーラ、すなわち芸術作品の時空間的な一回性に由来する霊的な付加価値(聖性、宗教的権威、儀式上の必要性)を剥奪し、大衆の瞬間的な需要にこたえる工業製品とした。それは単なる劣化コピーの蔓延ではなく、芸術の本質的な変化と大衆のための新しい価値をもたらす。その反動としてエスタブリッシュメントは失われたオーラを求め、「芸術のための芸術」すなわち芸術そのものを芸術の至上目的として自己目的化、聖化するムーブメントを生み出す。ここまではわかりやすい。だがベンヤミンは、これをファシズム翼賛に利用される動きとして批判、芸術は自発的に大衆啓蒙という政治目的を持ち、共産主義に向かうべきと結論した。 当時の西洋社会の最大争点がファシズムと共産主義の闘争であったこと、なによりベンヤミン自身がナチスに弾圧されのちに追い詰められ死を迎えるユダヤ人であったことを割り引いても、この論点は興味深い。実際にファシズム政権が芸術運動のスポンサーとなり、大衆扇動を巧みに行った事実の説明ともなる。もちろん、ベンヤミンの死後、共産主義もまた芸術を政治利用した挙句、無残な失敗を迎えたことを鑑みれば、結論を鵜吞みにはできない。意思を持って自ら参加したぐらいのことで利用されない自主性をもてるほど、政治とは単純なものではないからだ。資本主義を批判することを目的とする芸術活動であるバンクシーが資本主義の人気商品になるように、システムを批判することはその外側に出られることを意味しないどころか、むしろその積極的な駆動力になることは珍しくない。いずれにせよ、客観的な教訓は一つだ。オーラの欠如はオーラへの渇望を生み、それは政治に利用され、あるいは逆に政治を利用する動機となり、その相互作用は価値観の変動を伴う強い流れの起点となる。 この観点からみるとNFTアートの立ち位置はわかりやすい。芸術から失われたオーラの復活を求めた数多の失敗の一つ、それがNFTアートといえ
Web3はなぜ日本で普及しないか
Web3にはまだキラーアプリがないから起業家が創ればいいとか、技術をもっと発展させてコストを安くすればいいとか、単に老人が技術についていけていないだけだからそのうち普及する、とかいうのが定番の答えだろう。 しかし私はそうではないと思う。単純にWeb3はあまりにEvilすぎる。それは構造的性質でありどんなキラーアプリが出てこようが現代の日本で普及することはない。そんな中でどれだけ投資機会に飢えているJTCが火中の栗を拾いに乗り込んできても、そのたびに大事故が起きて一部の人間だけが利確して逃げ切り、何も生み出さないだろう。 こういうと、Web3界隈は「そもそもWebは1.0の時代からEvilであったし、今でもEvilだし、資本主義そのものもEvilであるし、人間もEvilだけど、クリプトを使えばコードレベルでEvilさを軽減することができるんだ」というお決まりの議論を持ち出してくる。 しかし、どう考えてもそれは観測事実に反する。明らかに、Web3は既存のどの経済システムよりもEvilである。収奪的で、寡占的で、非民主的で、不便で、知識のない人間や不注意な人間は無限のリスクを負い、コミュニティへの貢献はアテンションを稼いで自己利益に変換するためにしか行われてない。 これはキラーアプリがないということを意味しない。むしろ本質的に非中央集権制が必要な、興味深いアプリは出てきている。そもそも最初のアプリであるBTCは国家にも実物にも依存しないStore of Valueという確かな価値を提供しているし、Polymarketの情報は原理的に党派に依存しえない勝率予測器としておおいに参照されている。 だがそれらの価値は、Evilさと表裏一体だ。BTCは犯罪組織の不正送金や蓄財に使われているが、これはまさに国家の管理から逃れる最大のメリットの一つだ。Polymarketは未登録かつ未規制のバイナリオプション業者として米国を追われながら、明らかに米国内から違法に接続された売買者から情報を得ている。だからこそ歪みも党派性もない賭けの結果として未来予測を織り込むことができるし、閲覧者はそう信じることができる。 もしこれらが、一部のプロジェクトのように、中央集権組織の規制を受け入れたり、それ等の管理下に入ると、本質的な価値はおおいに棄損される。それらは単に中央集権組織が、Web3の支配におびえてそれらを完全に飼いならそうという不毛な努力をしているに過ぎない。だが飼いならされたクリプトは単なる不便なゴミで、ポンジにしか使えない。Evilさこそがブロックチェーンの価値の本質なのだ。 日本でまだ技術もコンテンツも資本も潤沢にある数少ない組織のソニーがつい
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