家永三郎「戒具の歴史」

家永三郎「戒具の歴史」

家永三郎氏は、戦後の教科書裁判などを戦った、生真面目で、融通の利かない歴史研究者という印象があるかもしれない。

そうはいっても、家永氏は、どちらかといえば、リッケルトやカッシーラーといったドイツ西南学派に拠った、マルクス主義歴史学とは一線を画す精神史家だった。イメージとしては、政治学における丸山眞男のような存在。したがって、反体制的な知識人というわけではない人物が、そうした教科書裁判的なものを戦ったことで、反体制的知識人のような印象を後年持たれてしまった。どちらかといえば、近代主義者の一人で、自由と尊厳を重んじた知識人の一人であったと思う。

さて、そんな生真面目な家永三郎氏の論文の中に「戒具の歴史」という論考がある。この本は、『歴史家のみた日本文化』(雄山閣 1983)に所収されている。

「戒具」とは何か。要するに、罪人を縛り上げる道具のことである。「犯罪人を戒護するためその身体を拘束する方法」(p.177)と、家永は書いている。

律令では、木製や金属製の道具を使って、罪人を拘束した。

江戸時代になると、「縄」を使って、罪人を拘束した。

隋の時代において、罪人を拘束するにおいて、金属製の道具を用いた。その道具が堅固であればあるほど、文明の証であり、縄のようなものを用いるのは、幼稚野蛮な文明でしかなかった。そんな隋唐の制度を唯々諾々と受け入れた朝廷は、日本の律令において、金属製ないしは木製の拘束具を用いたのだという。

しかし、大陸の令制は、武家社会の発展の中で廃れ、やはり縄が姿を現してきた。

本来は、縄から金属へと、合理的に発展していくはずの戒具だが、繩に逆戻りしてしまうのだが、その逆戻りしたことで、縄を用いて拘束のみならず、拷問的な効果を与えようとしたことで、独自の緊縛文化が日本に生じた、という。

この独自の緊縛文化に対して、なるほど、面白いと思わされた。

「木製金属製の戒具と違い、縄の場合は単純な縛り方では縄を緩めて縛を脱する可能性が多いので、縄脱けのできぬように縛り方に特別の工夫を凝らす必要があったのがそのはじまりであろうが、次第にそうした実用的目的を離れて、日本特有の面倒な故実となり、人を縛る一種の専門的技芸が成立した」(p.184)

江戸期には、「唯拘束の目的を達するよう縛りさえすればよいのではなく、武士、神官、僧侶、婦人等の身分別、性別にそれぞれこれに対する縄の掛け方があって、その人に応じたかけ方をしなければ、縛る方も縛られる方も共に恥辱した」(p.184)という。

ゴロウニンに日本幽囚記には、そんな縛り方をされたゴロウニンの嘆きと驚きが書かれている。そう思って、マーティン・スコセッシの『沈黙 サイレンス』を見ると、もっと面白いのかもしれないと思った。

こうした縛の技術の展開によって、「舞台の上に登場人物が縛られて苦悶する芝居を上演させて覧るをよろこぶ倒錯的芸術さえ流行した」(p.188)という。

戒具が手錠というものへと変化したのは明治も終わりになってからである。そう考えると、手錠というのは、縄に比べて、人道的なのかもしれない。縄の場合は、その掛け方によって、逃げようとするともっと締まるような拷問的な方法があって、手錠の場合は拘束はされているもののそうならない、という点で人道的だ。

縛はそのため、当時の人々の私的制裁の方法ともなっていた。しかし、近代になると、こうした制縛の風習を私的に行うことは禁じられる。

家永氏は、こうした社会の変化が、戒具の変化にも反映していることに、興味深さを感じているのだ。

「要するに犯人の身体的拘束の手段というような、全歴史的過程から見ればまことに末梢的な現象にも、外来法と固有法との交替という大きな法制史推移がうかがわれるばかりでなく、それぞれの時代の歴史的特色が明瞭に反映していることが認められるのであって、はなはだ興味深い事実ではあるまいか」(pp.195-196)

これは、あくまで家永による戒具の歴史の素描の記述に過ぎないが、こうした側面の歴史は大変に面白いように思われる。

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歴史探究系、事象考察系、読書感想系。

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