RNAワクチンの存在:きみはどうして儚いのか

RNAワクチンの存在:きみはどうして儚いのか

はじめに

 生命科学の研究でRNA、とくにmRNA(メッセンジャーRNA)をよく扱います。彼の病のワクチンとしてわが国で最初に承認されたのはこのタイプのワクチン。

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_pfizer.html

このRNA、じつは儚い存在なんです。mRNAの取り扱い経験にもとづいて、なぜ取り扱いがむずかしいのか説明します。

*わかりにくいおもな専門用語については本文末に説明しました。

いたるところに

 RNAの取扱には注意が必要です。その理由はいとも簡単にリボヌクレアーゼ(以下RNaseと略します)によってRNAが分解されてしまう点。

mRNAを取り扱う試薬、器具、実験室の実験台の表面などはすべてRNaseが作用しないようにしておく必要があります。もちろんRNAを使ったお薬もおなじ。

なにしろRNaseは、生命の生息する場のいたるところに存在するといって過言ではありません。とくに人間自身が極端な言い方をすればリボヌクレアーゼのかたまりといってもよいでしょう。

DNAとRNAはわずかなちがい

 よく耳にするのがDNA。そうです、デオキシリボ核酸。生命の遺伝情報を伝える物質。このDNAとRNAは分子構造がわずかに違って*います。

(より知りたい方のみどうぞ)

*おおまかにいうと構成要素の糖の化学構造が2’-デオキシか否かの違いと、塩基のチミンとウラシルの5-メチル基の有無の違い。このわずかな違いならびに両者の立体構造の違いをRNaseは厳密に見わける能力(基質特異性といいます)をもちます。RNAは認識するけれどDNAは基質にしない性質です。DNAの分解はべつの酵素、DNaseが触媒します。

RNAをあつかうには重装備

 したがってRNaseを徹底して除去するために周囲をていねいに掃除して、白衣に手袋(かなりすその長いもの)、マスクなどを装着、場合によっては消毒用エタノールでいたるところきれいに拭いておきます。

なぜなら、細菌などがごくわずかでも付着していると、もっているRNaseがはたらいてしまうからです。すべての実験器具も同じです。そうした準備をした上でしかも速やかにおこなわないと、分解のリスクが増してしまいます。操作に熟練したうえで扱うのが無難。慣れてくると試料から粉砕、抽出まで数十秒。

生体試料を粉砕してmRNAを抽出するために液体窒素(極低温です)を使って瞬間で凍らせ、ただちに破砕します。RNaseは極低温ではたらかないとされているからです。

酵素の最適温度を把握する

 RNaseをはじめとして生体触媒の酵素にははたらきやすい温度、すなわち最適温度があります。多くはわたしたちの体温付近から淹れたてのお茶ぐらいの温度。この温度をピークに、それ以上になるとタンパク質でできた酵素は活性を失います。

逆に低温では分子運動が静まるので酵素反応自体がすすみにくいです。液体窒素中やディープフリーザー中などの低温ではほぼはたらきません。政府がワクチンの運搬・保管の目的で、当初はディープフリーザーを揃えようとやっきになったのはこのため。

さらに液体窒素(‐200℃以下)やドライアイス(‐80℃以下)は比較的入手しやすいです。凍傷に備えて軍手のように厚い手袋の上に、新品の使い捨ての手袋を重ねて扱うことがあります。細かな作業をするには不自由な恰好です。

阻害剤や安定剤

 またRNaseがはたらかないように加える阻害剤はいつも使えるとは限りませんし、それでも周囲からの混入には注意が必要です。わずか数秒のうちにRNAが分解されることも。

とくにお薬の場合には安定剤も吟味して選ばれており、安全性の試験が厳密に行われたうえで使われています。

安定剤に関しては各製薬会社でノウハウがあり、今回おもな3社では運搬の際の温度が異なっていました。ワクチンの中身のちがいはさておき、おそらく安定化の方策に違いがあるのだろうと感じました。

なにはともあれmRNAを取り扱う場合、準備をすべて整えてからとりかかります。mRNAを取りあつかう日は段取りを目の前に置き、ひととおり頭に思い浮かべつつ、朝から緊張してすごすこともあります。

おわりに

 今回の彼の病をきっかけにして、生命科学の分野の実用上の重要性が指摘されています。PCRについても診断のみならず、本来はもっと広範なところで使われている根幹となる技術です。

こうした観点からていねいにわかりやすく伝えていく努力が、従事してきたわたしたちに欠けていることを痛感しています。世間のみなさまに対して申し訳ない限りです。

用語説明

核酸:核酸はヌクレオチドのポリマーで、ポリヌクレオチドと呼ばれる。

ヌクレオチド:核酸をかたちづくる構成単位。糖、塩基、リン酸部分からなる。

RNA:リボ核酸。生体内でmRNA,tRNA,rRNA…など数多くの種類が見いだされつつあるさまざまな機能を持つ物質。

DNA:デオキシリボ核酸。遺伝子暗号の本体となる物質。

酵素:生体触媒の一種。おもにタンパク質から構成される。さまざまな物質を厳密に見わけて触媒としてはたらく。肝臓の重さのかなりの部分を、酵素が占めている。

基質:酵素の作用する物質。酵素の特異性により標的となる物質は厳密に定まっている。生体内で必要な物質の生成や処理に向かう物質の変換(代謝という)が酵素の触媒作用でつねにおこなわれ恒常性が保たれている。体温はまさにその代謝にともなう。

リボヌクレアーゼ:RNaseともいう。RNAの分解を触媒する酵素、あらゆる生命体に普遍的に存在するありふれた酵素。

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